「18世紀の富士山噴火に際して、江戸幕府がとった被災地救済の方針とは?」
「地域ごとの救済対応に違いが生じた理由とは?」
「江戸幕府の救済方針にはどのような問題があったのか?」
2021年東大日本史第3問設問Bでは、「18世紀の富士山噴火時における江戸幕府の被災地救済方針とその問題点」について文章(2)(3)のように地域ごとに対応が異なる理由に注意して3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、次の2つのポイントを中心に解説します。
- 江戸幕府が地域ごとに異なる救済方針をとった理由
- 救済方針における問題とその結果
江戸幕府が直面した災害対応の課題を通じて、全体像を見極めて適切に対応することの重要性を理解できる内容となっています。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(2)
豊かな足柄平野
足柄平野は肥沃で農業が盛んな生産力の高い地域で、石高も大きかったため、幕府は早期の年貢回復を重視して救済を優先しました。
上流から砂が流れ込んで堆積し、氾濫の危険性が高まっていた。/下流域で洪水が繰り返された
上流から流れ込んだ砂が堆積し、洪水が繰り返されるなどの問題が発生しました。
短期的な対策のみが行われ、洪水防止に十分な対応が取られなかったために被災地の完全な復興は遅れてしまいました。
幕府は他地域の大名にも費用を分担させ、
大名たちに費用を分担させる「お手伝い普請」を通じて、復興を進めました。
文章(3)
冷涼な富士山麓の村々
山麓地域は農業に適しておらず、石高が小さかったです。
幕府からの手当はわずか
幕府は財政難だったこともあり、わずかな復興費しか支出せずに自助努力を促す方針をとりました。
一部の田畑を潰して砂を捨てていた
住民は自力で復興を進めましたが、火山灰を田畑に捨てるなどで農地が失われて地域の生産力が低下してしまいました。
捨てた砂は酒匂川に流れ込み、下流部に堆積してしまった。
捨てられた火山灰が酒匂川を経て下流に流れ込み、下流域に洪水をもたらすという二次災害が発生しました。
幕府の問題点
このように、幕府が災害の全体像を把握できず、地域ごとの対応に偏りが生じた結果、連鎖的な問題を引き起こしました。
短期的な対策に終始し、上流と下流の復興を連携させなかったため復興が遅れ、かえって災害が拡大する事態を招きました。
講義
お手伝い普請とは
江戸幕府が大規模な城郭建設や治水工事を行う際、大名に対して労働力や資材や代替金を負担させた課役のことを「お手伝い普請」といいます。
この制度により幕府は大名に対して広範な責任を課し、特に重要な土木事業に協力させました。
しかし、大規模な普請は大名の財政に大きな負担を強いることがあり、財政難の一因ともなりました。
江戸時代の大名知行制
江戸時代の大名知行制では、将軍が「御恩」として領地を石高に基づき知行給与し、大名は「奉公」として知行高に応じた軍役やお手伝い普請を提供しました。
この関係は、将軍と大名の間で相互に義務を負う形で制度化されていました。
また、江戸時代には、諸大名に江戸への参勤や人質の提出を義務付ける「参勤交代」も行われ、大名の統制を強めていました。
解答例
幕府は年貢収入の回復を優先し、石高の大きい平野部に復興費を集中させ山間部には十分な費用を投じなかった。その結果、山間部で捨てられた火山灰が下流の平野部に堆積し洪水で復興が遅れた。
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