オーストラリアへのヨーロッパ人入植の経緯と白人中心主義形成の過程/東大世界史2020第2問・問2(b)

世界史

「オーストラリアを誰が・いつ探検したのかを整理しておきたい」
「オーストラリアへの移民が増えた理由や経緯が知りたい」
「オーストラリアが白豪主義を採るまでの過程を知りたい」

東大は2020の世界史でオーストラリアへのヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを2行(≒60字)以内で記述させる問題を出題しました。

そこで、この記事では以下のことを解説します。

  • イギリスの植民地となるまでに誰がいつオーストラリアを探検したのか
  • オーストラリアへの移民が増えた理由・経緯
  • オーストラリアが白豪主義を採用した理由・経緯

オーストラリアの歴史を整理する機会はなかなかないと思いますので、是非最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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講義

ヨーロッパ人のタスマンやクックが探検してから白豪主義により非白人の移民を禁止するまでのオーストラリアの歴史を解説します。

17世紀前半

17世紀前半はオランダが東アジア・東南アジアで強勢を誇っていた時代でした。

オランダ東インド会社はタスマンを派遣してタスマニア・ニュージーランド・オーストラリアを探検させました。

18世紀後半

イギリスの探検家クックがオーストラリアを探検し、イギリスによるオーストラリアの領有を宣言しました。 

その後、オーストラリアはイギリスの流刑植民地となりました。
イギリスの囚人がオーストラリアへ送られたということです。

19世紀前半

オーストラリアで牧羊業が発展し、ヨーロッパからの白人の入植が増加しました。

これに伴い、オーストラリアの先住民であるアボリジニーは白人による迫害や病気が原因で人口が激減しました。  

19世紀半ば

1851年にオーストラリア各地で金鉱が発見されるとさらに移民が増加しました。

低賃金労働者として中国系の移民が増加すると、白人労働者にとっての脅威となりました。
白人よりも中国系の移民のほうが低賃金で働くため、企業が中国系の移民を優先して雇用し、白人の移民の失業率が高まったからです。
中国系をはじめとした有色人種への反発が強まり、白人を優先し有色人種を排斥する白豪主義が始まりました。

20世紀初め

1901年にオーストラリア連邦が成立し、オーストラリアはイギリス帝国内の自治領となりました。

同年、オーストラリア連邦は非白人の移民を禁止しました。

答案作成

字数を気にせず書いてみる

イギリスが領有を宣言し、流刑植民地となった。その後牧羊業の発展や金鉱の発見でヨーロッパ人の入植が増加した。中国系の移民が増加すると白人による反発が強まり、非白人の移民を禁止する白豪主義を採用した。

98字です。
2行問題なので39字削る必要があります。

字数調整

イギリスが領有を宣言し、英の流刑植民地となった。その後牧羊業発展や金鉱発見でヨーロッパ人の入植移民が増加した。中国系移民が増加すると白人による反発が強まり、非白人移民禁止するの白豪主義を採用しった。

59字です。
削るのが大変でした。

解答例・まとめ

今回の解答例は

英の流刑植民地となった後牧羊業発展や金鉱発見で移民が増加した。中国系移民が増加すると非白人移民禁止の白豪主義を採った。

とします。

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