「西ヨーロッパ文化圏の特徴や成立過程を知りたい」
「東ヨーロッパ文化圏の特徴や成立過程を教えてほしい」
「イスラーム文化圏の特徴や成立過程を解説して」
東大は2021年度入試の世界史第1問で「5世紀から9世紀にかけての地中海世界において西ヨーロッパ文化圏・東ヨーロッパ文化圏・イスラーム文化圏の3つの文化圏が成立した過程を、宗教の問題に着目しながら20行(≒600字)以内で記述させる問題を出題しました。
そこで今回は、以下のことを解説します。
- 西ヨーロッパ文化圏の特徴と成立過程
- 東ヨーロッパ文化圏の特徴と成立過程
- イスラーム文化圏の特徴と成立過程
5世紀から9世紀にかけてのヨーロッパ史やイスラーム史が概観できる記事となりますので、是非最後までご覧ください。
講義
世紀ごとに西ヨーロッパ・東ヨーロッパ・イスラームそれぞれの動向を整理します。
5世紀
西ヨーロッパ
ゲルマン人の大移動が発生し、ゲルマン人の王国が各地で成立しました。
ゲルマン人の王国では少数のゲルマン人が多数のローマ人を支配する構図でしたが、ゲルマン人はアリウス派を信仰していたため、ローマ人からの支持は得られませんでした。
また、フン人のアッティラ王が西ヨーロッパに侵入したが、西ローマ帝国はゲルマン人との連合軍でこれを破りました。(カタラウヌムの戦い)
しかし476年にゲルマン人傭兵隊長・オドアケルによって皇帝が廃位され西ローマ帝国は滅亡しました。
5世紀末にはゲルマン人国家の1つであるフランク王国が台頭しました。
建国者クローヴィスがアタナシウス派に改宗したことによって、フランク王国はローマ系住民の支持を得ます。
また、ローマ教会もフランク王国を支持します。
ローマ教会はコンスタンティノープル教会と対立していました。
コンスタンティノープル教会には東ローマ帝国という強力な後ろ盾がありましたので、ローマ教会も後ろ盾を探していたのです。
フランク王国は、ローマ人との協調・融和に成功して発展しました。
東ヨーロッパ
東ローマ皇帝がエフェソス公会議を開いて三位一体説が正統であることを再確認し、イエスの神性と人性の分離を主張するネストリウス派を異端としました。
その後、ネストリウス派はイランのササン朝や唐に伝わります。
唐では、ネストリウス派は景教とよばれました。
また、東ローマ皇帝はカルケドン公会議を開いてイエスの神性のみを認める単性論を異端としました。
その後、単性論はエジプトやシリアなどへ広まっていきました。
特に、エジプトの単性論の教会はコプト教会とよばれています。
東ヨーロッパでは、東ローマ皇帝が公会議を開いたことからわかるように皇帝が聖俗両権を握っていました。
6世紀
西ヨーロッパ
ベネディクトゥスがモンテ=カシノにベネディクト修道会を設立し、そこを起点として西欧世界にローマ=カトリックを伝道しました。
ベネディクトゥスは「清貧・純潔・服従」という厳しい戒律を基本理念とし、「祈り、働け」を生活原則に掲げました。
これらのルールをまとめてベネディクト戒律とよびます。
また、6世紀末にはローマ教皇のグレゴリウス1世がイングランドなどでゲルマン人へのカトリックの布教を進めました。
東ヨーロッパ
東ローマ帝国ではユスティニアヌス帝がアリウス派を信仰するゲルマン人国家である北アフリカのヴァンダルやイタリアの東ゴートを征服して地中海世界を再統一しました。
ユスティニアヌス帝の時代の東ローマ帝国では政治・経済・文化で顕著な業績が残っています。
- 政治:トリボニアヌスらに『ローマ法大全』を編纂させ、ローマ法を集大成した
- 経済:コンスタンティノープルが国際商業都市として発展した
- 経済:中国から蚕卵を密輸入して養蚕業をおこし、絹織物産業を国家の重要産業に育成した
- 文化:ビザンツ様式のハギア=ソフィア聖堂を建立した
しかし、ユスティニアヌス帝の死後東ローマ帝国は西地中海から撤退し、地中海世界の統一は崩れました。
7世紀
西ヨーロッパ
フランク王国では、メロヴィング王家が弱体化していきます。
ゲルマン人には分割相続の慣習があったため領土が細分化していったからです。
王家に代り宮宰を務めるカロリング家が権力を掌握していきました。
東ヨーロッパ
東ローマ帝国の領域が縮小します。
- バルカン半島:スラヴ人とブルガール人が南下し、ブルガール人がブルガリア帝国を建国します。
- シリア・エジプト:イスラム教を信仰するアラブ人勢力に奪われます。
こうして、東ローマ帝国はバルカン半島の一部とアナトリア(小アジア)のみを領域とする国家になります。
公用語もラテン語からギリシア語に変わりました。
これ以降の東ローマ帝国はビザンツ帝国とよばれることが多くなります。
公用語がラテン語からギリシア語になったことによりラテン語を用いる西ヨーロッパ世界との差異が明確化しました。
領域の縮小に危機感を覚えたビザンツ帝国は、軍管区制(テマ制)や屯田兵制を実施して軍事力の強化を図りました。
イスラーム世界
ムハンマドがアラーの啓示を受けてイスラーム教を創始します。
その後、イスラーム勢力は布教のための征服活動(ジハード)を積極的に推し進めて異教徒を支配します。
これにより、アラビア半島からアラビア語を公用語とするアラブ人が台頭します。
特に、ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪ったことの影響は大きく、イスラーム勢力は砂漠の多いアラビア半島に加えて農業に適した肥沃な土地を得て経済力を高めました。
ムハンマドの死後、選挙で選出された後継者である正統カリフ時代が続きましたが第4代正統カリフのアリーが暗殺されて終焉します。
その後はウマイヤ朝が成立し、カリフ位は世襲化します。
ウマイヤ朝は「アラブ帝国」ともよばれます。
それは、ムスリム(イスラーム教徒)のなかでもアラブ人を優遇したからです。
支配層 | アラブ人 | 免税特権を持つ |
被支配層 | 非アラブ人 ムスリムはマワーリー 非ムスリムはズィンミー | ジズヤ(人頭税) ハラージュ(土地税9 を負担した |
また、アリーの子孫はウマイヤ朝と対立しシーア派を形成しました。
これに対し、ウマイヤ朝を支持する多数派はスンナ派とよばれました。
8世紀
西ヨーロッパ
フランク王国では前世紀の王権の弱体化の流れが続き、宮宰カール=マルテルが台頭します。
カール=マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦いでイベリア半島からフランク王国内に侵入してきたウマイヤ朝を破ります。
その後カール=マルテルの子がメロヴィング朝から王位を獲得し、カロリング朝をひらいてピピン3世となります。ピピン3世はローマ教皇に北イタリアの海上交通の要衝であるラヴェンナ地方を寄進し、教皇領の起源となります。
こうして、ローマ教会とそれを率いるローマ教皇とフランク王が接近します。
背景にはビザンツ帝国が出した聖像禁止令へのローマ教会の反発による東西教会の対立の深刻化がありました。
ピピン3世の子のカール1世(カール大帝)の時代にローマ教皇はさらにフランク王国に接近します。
そして、ローマ教皇のレオ3世がカール大帝をローマ皇帝として戴冠します(カール戴冠)。
これにより、ローマ教会は名実ともにビザンツ皇帝から独立した存在となりました。
また、西ヨーロッパにおいて帝権と教皇権の相互依存関係が成立しました。
(皇帝はローマ教皇を政治的に保護する一方、皇帝の権威は教皇からの戴冠によるという関係)
カール戴冠以外のカール大帝の主要な業績は以下の通りです。
- 地方の軍事・行政・司法を伯に委ね、統治制度を整備した
- ランゴバルド王国を滅ぼす⇒北イタリアを得た
- 侵入してきたアジア系遊牧民アヴァール人を撃退した
- ザクセン人を征服し、北ドイツをキリスト教世界に編入した
- 後ウマイヤ朝が支配するイベリア半島に遠征し、スペイン辺境伯領を創設した
- ラテン語文化を保護し、古典文化の復興運動であるカロリング=ルネサンスを進めた
これにより、ローマの伝統と理念・ゲルマン文化・キリスト教(カトリック)が融合しました。
こうして地中海世界の西方に学術用語であるラテン語とカトリックによる西ヨーロッパ文化圏が成立しました。
東ヨーロッパ
ビザンツ皇帝レオン3世はコンスタンティノープルを包囲したウマイヤ朝を撃退しました。
そしてイスラーム勢力に対抗するために聖像禁止令を発布して偶像崇拝(絵や像に対して祈ること)を禁止しました。
これはゲルマン人への布教に聖像画(イコン)を使用するローマ教会の反発を招き、東西両教会の対立が決定的となりました。
【聖像禁止令はなぜ発布されたか】
聖像禁止令がこの時期に発布された理由について、一般的には上記のように「イスラーム勢力に対抗する必要があったから」と説明されます。
ではなぜ聖像禁止令はイスラーム勢力に対抗する手段たり得たのでしょうか。
ここではその点について解説します。
キリスト教はもともと偶像崇拝を禁止していました。
旧約聖書に偶像崇拝を禁止する旨が書いてあるからです。
しかし、長い年月を経て絵や像を信仰の対象とするようになっていったのです。
イスラーム教はキリスト教と同様に旧約聖書を重要視しています。
モーセらにもたらされた神の啓示を、アッラーによるものだと考えているからです。
したがって、イスラーム教徒は偶像崇拝を禁止しています。
ビザンツ帝国に侵入したイスラーム教徒たちは、ビザンツ帝国のキリスト教徒による偶像崇拝を「旧約聖書の教えに反する行為」として批判します。
そうした批判により信者間の連帯が弱まることを恐れたビザンツ皇帝が聖像禁止令を出したという説があります。
また、別の説もあります。
ビザンツ帝国はイスラーム勢力による侵入に対抗するための戦費負担に苦しんでいました。
そこで、教会から土地や領民を没収する口実として聖像禁止令を出したという説です。
聖像禁止令に従わない教会から土地や領民を没収し、イスラーム勢力に対抗するための財源に充てました。
どちらの説をとったとしても「イスラーム勢力に対抗するために」という説明が当てはまるのでこう書いておくのが無難とされているのですね。
イスラーム
ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を征服しました。
その後東ヨーロッパではコンスタンティノープル包囲をするもビザンツ帝国のレオン3世に撃退され、西ヨーロッパでもトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に撃退されました。
こうしてイスラーム勢力のヨーロッパへの拡大は止まりました。
8世紀半ばにはウマイヤ朝のアラブ人優遇政策に不満を持つ非アラブ人ムスリム(マワーリー)の支持を背景にアッバース家がウマイヤ朝を打倒してアッバース朝が成立しました。
アッバース朝はムスリムのジズヤを廃止し、これによりムスリム間の平等が実現しました。
そこで、アッバース朝のことを「イスラーム帝国」ともよびます。
これにより、アラビア語とイスラーム教によるイスラーム文化圏が成立しました。
9世紀
ビザンツ帝国がバルカン半島のスラヴ人・ブルガール人へのギリシア正教布教を進めました。
これにより、東ヨーロッパにギリシア語とギリシア正教によるビザンツ文化圏が成立しました。
ここまでのまとめ
ここまでの内容をまとめました。
構想
講義で説明したことを記述することになるわけですが、600字という字数制限があります。
そこで、「何を書くか」「何を書かないか」の判断が求められます。
この判断の根拠になるのがリード文と指定語句です。
そうした判断の過程を解説します。
リード文
第1段落
諸民族の大移動を契機として
「民族大移動」といえばまずゲルマン人の大移動が思いつきますね。
「ゲルマン人の大移動」は書く必要がありそうです。
しかし、「諸民族」とあるので他の民族についても言及が必要です。
ある民族が大規模に居住地を変更した事実は、優先して記述したほうが良さそうです。
具体的には、東ヨーロッパではスラブ人・ブルガール人の南下が、イスラームではアラブ人の各地への侵略がこれに当てはまりそうです。
宗教をめぐるさまざまな葛藤
宗教をめぐる葛藤ということなので、宗教間の対立に加えて宗派間の対立にも言及が必要そうです。
- キリスト教とイスラム教の対立
- 東西キリスト教会の対立
- アタナシウス派とアリウス派の対立
- スンナ派とシーア派の対立
- 同一宗派内での対立(これはアラブ人とマワーリーの対立を指す)
これらが西ヨーロッパ・東ヨーロッパ・イスラームの文化圏形成に関連していれば優先して字数を割く必要があります。
第2段落
5世紀から9世紀にかけて
時期の指定です。
これに合わないもの、例えば395年のローマ帝国の東西分裂や10世紀の神聖ローマ帝国成立は書いてはいけない(書いても点数がもらえない)ことになります。
地中海世界において
場所の指定です。
地中海世界とはすなわち
- イタリア半島
- バルカン半島
- 小アジア
- 北アフリカ
- イベリア半島
- 南フランス
を指します。
これらの地域における情勢を記述していきましょう。
これ以外の地域の情勢は指定語句にでもなっていない限り書いてはいけないということになります。
例えば、唐とアッバース朝が戦ったタラス河畔の戦いは8世紀の出来事なので時代の条件を満たしていますが場所の条件を満たしていないので書いてはいけないことになります。
また、アラビア半島やイングランドも地中海世界ではないので指定語句になっていたり指定語句と深い関わりがあったりしない限りは登場させないことになります。
3つの文化圏が成立していった過程
3つの文化圏とは、
- 西ヨーロッパ文化圏
- 東ヨーロッパ文化圏(ビザンツ文化圏)
- イスラーム文化圏
を指します。
これらの地域が宗教・言語など独自の文化的要素を獲得していく過程を記述しましょう。
「文化」圏なので、政治的な要素(例えばユスティニアヌス帝が『ローマ法大全』を編纂させたことなど)の優先順位は極めて低そうです。
ただし、「諸民族の大移動」に関しては文化が関係なくとも第1段落でフィーチャーされている要素なので字数を割くことになります。
宗教の問題に着目しながら
第1段落に「宗教をめぐるさまざまな葛藤」という表現があり、ここでも「宗教の問題に着目しながら」とあるので宗教が関連するトピックを中心に記述していくことが再確認できます。
指定語句
ギリシア語
7世紀以降、ビザンツ帝国の公用語がギリシア語になりました。
このことを書けということでしょう。
と同時に、他の文化圏の言語つまり西ヨーロッパのラテン語とイスラームのアラビア語についても書けということだと考えましょう。
グレゴリウス1世
グレゴリウス1世はイングランドなどのゲルマン人に布教活動を行ったローマ教皇です。
イングランドは地中海世界ではないので、「ゲルマン人への布教活動」が重要であると考えます。
クローヴィス
フランク王国の建国者で、アタナシウス派に改宗した人物です。
今回の問題は「宗教」が一番のキーポイントなのでその点について言及すれば良さそうです。
ジズヤ
ウマイヤ朝が被征服地の住民に課した人頭税です。
被征服地のムスリム(マワーリー)にも課されました。
このことがウマイヤ朝崩壊の原因になっていくのでその点を書けば大丈夫そうです。
聖像画(イコン)
2つの文脈が考えられます。
- ローマ教会がゲルマン人への布教に聖像画(イコン)を用いていたこと
- 8世紀にビザンツ皇帝が発布した聖像禁止令で聖像画(イコン)も禁止されたこと
どちらも今回のキーポイントである宗教に深く関係しているので、両方に言及しておきたいですね。
バルカン半島
地中海世界の一部です。
この地に7世紀にブルガール人がブルガリア帝国を建国しました。
「諸民族の大移動」の一例としてブルガール人の移動を説明する際に使いなさい、ということでしょう。
マワーリー
非アラブ人のイスラーム改宗者のことです。
ウマイヤ朝ではジズヤを負担しましたが、アッバース朝ではジズヤの支払いは免除されました。
ジズヤとマワーリーは同じ文脈で使用する語句です。
指定語句にするのはどちらか1つでいいような気がしました。
なぜどちらも指定語句にしたのでしょうか。
おそらく「ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交代は宗教や宗派間の対立によるものではないけど確実に書いてほしい」という気持ちの表れではないでしょうか。
答案作成
ここまでの情報を踏まえて答案を作成しましょう。
字数を気にせず書いてみる
5世紀、ゲルマン人国家が分立し西ローマ帝国が滅亡する混乱のなかでフランク王国のクローヴィスがアタナシウス派に改宗しローマ教会の支持を得て台頭した。その後もローマ教皇グレゴリウス1世がゲルマン人への布教を進めた。6世紀の東ヨーロッパではユスティニアヌス帝が地中海世界を再統一したが彼の死後地中海世界の統一は崩れた。7世紀にイスラーム勢力が東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪うなどジハードを展開して異教徒を支配した。スラブ人とブルガール人がバルカン半島に南下したこともあり領域がバルカン半島の一部とアナトリアなどに限定された東ローマ帝国は公用語をギリシア語にした。8世紀にはウマイヤ朝がイベリア半島を侵略したがそれ以上の北上はフランク王国に阻まれた。ウマイヤ朝のアラブ人優遇政策により改宗後もジズヤの負担を義務付けられたマワーリーの支持でアッバース朝が成立するとマワーリーへのジズヤは廃止され、ムスリム間の平等が実現してアラビア語とイスラーム教によるイスラーム文化圏が成立した。ビザンツ帝国で聖像禁止令が出ると聖像画(イコン)を禁止されたことに対し、それをゲルマン人への布教に用いていたローマ教会が反発し東西教会が対立した。ローマ教皇はフランク王国のカール大帝をローマ皇帝として戴冠しビザンツ皇帝から独立するとカール大帝は領域の拡大と文化復興を進め、ラテン語とゲルマン文化とカトリックによる西ヨーロッパ文化圏が成立した。9世紀にビザンツ帝国がスラヴ人・ブルガール人にギリシア正教を布教してギリシア語とギリシア正教によるビザンツ文化圏が成立した。
671字です。
20行問題なので、71字削る必要があります。
字数調整
5世紀、ゲルマン人国家が分立し西ローマ帝国が滅亡する混乱のなかでフランク王国のクローヴィスがアタナシウス派に改宗しローマ教会の支持を得て台頭した。その後もローマ教皇グレゴリウス1世がゲルマン人への布教を進めた。6世紀の、東ヨーロッパではローマのユスティニアヌス帝が地中海世界を再統一したが彼の死後地中海世界の統一はに崩れた。7世紀にイスラーム勢力が東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪うなどジハードを展開して異教徒を支配した。スラブ人とブルガール人がもバルカン半島に南下したこともありて領域がバルカン半島の一部とアナトリアなどに限定された東ローマ帝国は公用語をギリシア語にした。8世紀にはウマイヤ朝がイベリア半島を侵略したがそれ以上の北上はフランク王国に阻まれた。ウマイヤ朝のアラブ人優遇政策により改宗後もジズヤのを負担を義務付けられ反発したマワーリーの支持でアッバース朝が成立するとマワーリーへのジズヤは廃止され、ムスリム間の平等が実現してアラビア語とイスラーム教によるのイスラーム文化圏が成立した。ビザンツ帝国で聖像禁止令が出ると聖像画(イコン)をが禁止されたことに対し、それをゲルマン人への布教に用いていたローマ教会が反発し東西教会が対立した。ローマ教会はフランク王国のカール大帝にローマ皇帝として戴冠しと結んでビザンツ皇帝から独立するとカール大帝は領域の拡大と文化復興を進め、ラテン語とゲルマン文化とカトリックによるの西ヨーロッパ文化圏が成立した。9世紀にビザンツ帝国がスラヴ人・ブルガール人にギリシア正教を布教してギリシア語とギリシア正教によるのビザンツ文化圏が成立した。
597字です。
解答例・まとめ
今回の解答例は
5世紀、ゲルマン人国家が分立し西ローマ帝国滅亡のなかでフランク王国のクローヴィスがアタナシウス派に改宗しローマ教会の支持を得て台頭した。その後もローマ教皇グレゴリウス1世がゲルマン人への布教を進めた。6世紀、東ローマのユスティニアヌス帝が地中海世界を再統一したが彼の死後に崩れた。7世紀にイスラーム勢力が東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪うなどジハードを展開して異教徒を支配した。スラブ人とブルガール人もバルカン半島に南下して領域がバルカン半島の一部とアナトリアに限定された東ローマ帝国は公用語をギリシア語にした。8世紀にはウマイヤ朝がイベリア半島を侵略したがそれ以上の北上はフランク王国に阻まれた。ウマイヤ朝のアラブ人優遇政策に反発したマワーリーの支持でアッバース朝が成立するとマワーリーへのジズヤは廃止され、ムスリム間の平等が実現してアラビア語とイスラーム教のイスラーム文化圏が成立した。ビザンツ帝国で聖像画(イコン)が禁止され、それをゲルマン人への布教に用いていたローマ教会が反発し東西教会が対立した。ローマ教会はフランク王国と結んでビザンツ皇帝から独立するとカール大帝は領域の拡大と文化復興を進め、ラテン語とゲルマン文化とカトリックの西ヨーロッパ文化圏が成立した。9世紀にビザンツ帝国がスラヴ人・ブルガール人にギリシア正教を布教してギリシア語とギリシア正教のビザンツ文化圏が成立した。
とします。