「スエズ運河の建設開始からイギリスによるスエズ運河会社株式の購入までの歴史の流れを知りたい」
「イギリスがエジプトを事実上の保護国にする過程を整理したい」
「エジプトがイギリスからの独立やスエズ運河の国有化に成功する際の歴史の流れを把握したい」
東大は、2020年入試の世界史第2問・問2(a)でスエズ運河について、どこで何が造られたのかを明らかにしつつ完成から20年ほどのあいだのエジプトに対するイギリスの関与とそれに対する反発とを4行(≒120字)以内で記述させる問題を出題しました。
そこで、この記事では
- スエズ運河建設開始からイギリスによる株式取得までの流れ
- イギリスがエジプトを事実上の保護国化するまでの経緯
- エジプト王国成立からスエズ運河国有化までのエジプト史
について解説します。
スエズ運河という、現在も世界的に非常に重要な海上交通路である運河の歴史についての解説ですので是非最後までお読みください。
講義
スエズ運河の建設開始からスエズ運河国有化までのエジプト史を解説します。
スエズ運河の建設開始(1850年代)
スエズ運河とは、エジプトに建設された地中海と紅海を結ぶ運河です。
古来、エジプトは地中海と紅海に面していたため交通の要衝として繁栄しました。
そんなエジプトで、地中海と紅海を直接結んでヨーロッパとアジアの距離を短縮する運河の建設が始まりました。
フランス人のレセップスがエジプト政府に運河の建設を提案し、許可を得るとスエズ運河会社を設立して運河の建設を開始しました。
つまりスエズ運河の建設はフランス主導で行われたということです。
したがって、スエズ運河会社の株主はフランス政府とエジプト政府でした。
これは、スエズ運河の建設にあたって資金を出資したのがフランス政府とエジプト政府であったことを意味します。
以下、余談です。(暗記不要の話です。)
イギリスはスエズ運河建設プロジェクトには参加しませんでした。
これは、スエズ運河の開通による海上貿易ルートの変更がケープ植民地の存在感低下をもたらすという懸念やヨーロッパからインドへのアクセスが容易になることへの安全保障上の懸念、そしてフランス主導のプロジェクトが成功するとフランスのアフリカや中東への影響力が拡大するという懸念からと言われています。
スエズ運河会社株式のイギリスへの譲渡(1875年)
10年間の建設期間を経て、1869年にスエズ運河は開通します。
エジプトはスエズ運河の建設に必要な資金の多くを外債に頼ったため、エジプトは財政難に陥りました。
そして、イギリスがスエズ運河会社の株式をエジプトから購入し、エジプトへの影響力を強めました。
ディズレーリが首相のときでした。
スエズ運河会社の全株の44%を獲得して運河の経営権を握ったイギリスは、フランスとともにエジプトの財政を管理下におき、 内政への介入も強めました。
ウラービーの反乱(1880年代)
こうしたイギリス・フランスの内政干渉に反抗し、エジプト人の軍人ウラービーが反乱をおこしました。(ウラービーの反乱)
ウラービーは立憲制の確立や外国の排斥を求め、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに掲げました。
そこで、ウラービーの反乱はその後のエジプト民族運動の原点とされています。
なお、ウラービーの反乱はアフガーニーが提唱したパン=イスラーム主義の影響を受けたものとされています。 パン=イスラーム主義とは、西欧列強による植民地支配に対抗するためにムスリムは一致団結すべきという主張です。
イギリスによる事実上の保護国化(1882年)
イギリスはウラービー運動を鎮圧し、単独でエジプトを軍事占領しました。
そして、エジプトを事実上の保護国としました。
名目上はオスマン帝国の領土のままであったため「事実上の」保護国と称されます。
なお、エジプトが正式にイギリスの保護国となるのは第一次世界大戦が勃発した1914年のことでした。
オスマン帝国がイギリスと敵対する同盟国側で第一次世界大戦に参戦したことが理由でした。
エジプト王国の成立(1922年)
第一次世界大戦後にワフド党が主導する反英独立運動がエジプト全土に広がりました。
そして立憲制のエジプト王国が成立し、エジプトはイギリスからの独立を達成しました。
ただし、独立後もエジプトはイギリスにスエズ運河地帯駐屯権を認めるなど軍事的な支配を受け続けました。
スエズ運河の国有化(1956年)
第二次世界大戦後のエジプトでは、ナギブとナセルを中心とする自由将校団の軍人によるクーデタで王政が廃止されました。(エジプト革命)
このクーデタの目的はイギリスの影響力排除と近代化でした。
そして、エジプトには1953年にエジプト共和国が成立しました。
エジプト共和国の初代大統領にはナギブが就きましたが、改革を進めようとするナセルが政治の主導権を握りすぐに後任の大統領となりました。
ナセルはエジプトの近代化達成のためナイル川中流にアスワン=ハイダムの建設を計画しました。
水力発電により確保した電力を工業の発展や都市化の進展に活用するためです。
当初はアメリカの資金援助がある予定でしたが、ナセルがバグダード条約機構への参加を拒否すると援助計画が撤回されました。
すると、ナセル大統領はアスワン=ハイダムの建設資金を確保するためにスエズ運河の国有化を宣言します。
これをきっかけにスエズ運河の利権を持つイギリス・フランスがイスラエルとともにエジプトに侵攻してスエズ戦争(第二次中東戦争)が始まります。
アメリカ・ソ連がともにイギリス・フランス・イスラエルに撤退を求め、国連でも即時停戦が決議されるなど国際世論の非難ですぐに停戦となりました。
こうしてエジプトのスエズ運河国有化が実現し、ナセルはアラブ民族主義の指導者としての威信を高めました。
なお、ナセルの威信はその後1967年の第三次中東戦争での大敗で低下することになります。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
エジプトの地中海と紅海を結ぶ地点でスエズ運河がフランス主導で造られた。その後エジプトはスエズ運河建設費用の負担などによる財政難からイギリスにスエズ運河会社の株式を売却し、財政もイギリスの管理下におかれて内政にも干渉された。これに対して立憲制の確立や外国排斥を求めるウラービーの反乱がおきたがイギリスが単独でこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国とした。
176字です。
4行問題ですので、57文字ほど削る必要があります。
字数調整
エジプトの地中海と紅海を結ぶ地点でスエズ運河がフランス主導で造られた。その後がエジプトはスエズ運河建設費用の負担などによる財政難からイギリスにスエズ運河会社の株式を売却し、財政もイギリスのに管理下におかれて内政にも干渉された。これに対してする立憲制の確立や外国排斥を求めるたウラービーの反乱がおきたがをイギリスが単独でこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国とした。
119字です。
なんとか削ることができました。
解答例・まとめ
今回の解答例は
エジプトの地中海と紅海を結ぶ地点でスエズ運河がフランス主導で造られたがエジプトはイギリスにスエズ運河会社の株を売却し、財政もイギリスに管理された。立憲制や外国排斥を求めたウラービーの反乱をイギリスが鎮圧し、エジプトを事実上の保護国とした。
とします。