「清の藩部が辛亥革命後にどうなったか知りたい」
「外モンゴルやチベットが中華民国からの独立を目指した理由を教えてほしい」
「モンゴルの現代史を整理しておきたい」
東京大学は2020年の世界史第2問・問1(b)で、辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて3行(≒90字)以内で記述させる問題を出題しました。
そこで、この記事では
- 清朝が藩部として間接統治していた地域の辛亥革命前後の動向
- 外モンゴルやチベットが漢民族からの独立を目指した理由
- 自治権を獲得した後のモンゴル史
を解説しています。
現在の中華人民共和国における自治区の形成にも関わるテーマとなっておりますので、是非最後までお読みください。
講義
清による統治
清朝は内・外モンゴル、チベット、新疆を藩部としました。
藩部では理藩院が監督する間接統治が行われ、各民族は固有の社会制度を維持したままで大幅な自治を認められていました。
光緒新政(20世紀初め)
清朝は、義和団事件や日露戦争の影響で政治体制を近代化する必要性を強く感じました。
そこで、漢民族主導で中央集権化や近代化を推進しました。
藩部に対しては従来の間接統治から直轄支配への転換による支配強化を図りました。
これには中央集権化の一環として「国語」としての漢語教育が行われるなど、各民族の文化を尊重しない政策もありました。
そのため、各民族の清朝に対する反発や不満が高まっていきます。
そうしたなかで辛亥革命により清朝が倒されて中華民国が成立しました。
このときの清朝における旧藩部の対応を説明します。
内モンゴル(モンゴル高原南部)
内モンゴルは中国の歴代王朝の勢力圏におかれることが多く、モンゴル族に加えて漢民族も多く住んでいました。
そのため、辛亥革命後に中華民国からの自治権獲得を目指す動きもありましたが承認には至りませんでした。
その影響もあり、内モンゴルは現在も中華人民共和国の内モンゴル自治区であり独立国ではありません。
外モンゴル(モンゴル高原北部)
辛亥革命時の動向
外モンゴルは辛亥革命の勃発に際して独立を宣言しました。
中華民国の不承認により独立には至りませんでしたが、ロシアの介入もあり中華民国内での自治権を獲得しました。
1921年独立の達成
ロシア革命の影響でチョイバルサンらによって外モンゴル人民臨時政府が成立しました。
1924年社会主義国の樹立
ソ連の支援のもと、チョイバルサンらがモンゴルで社会主義国を樹立しました。
- 国名:モンゴル人民共和国
- 首都:ウランバートル
- 特徴:世界で2番目の本格的な社会主義国
その影響で、外モンゴルは現在もモンゴル国として独立国の地位を保っています。
チベット(中国西南部の高原地帯)
チベットでは、辛亥革命で清朝が倒れるとダライ=ラマ13世が独立を宣言しました。
しかし、中華民国がこれを認めず、また欧米列強の支援や承認も得られなかったため独立は達成できませんでした。
その影響もあり、現在もチベットは中華人民共和国内のチベット自治区であり、独立を達成できていません。
新疆(東トルキスタン)
辛亥革命時の新疆では漢族が実権を掌握していたため、辛亥革命後も中華民国政府との関係を維持しました。
その影響もあり、新疆は現在も新疆ウイグル自治区として中華人民共和国に属しています。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
モンゴルとチベットでは清朝の漢民族主導の中央集権化に対する不満が高まっていた。辛亥革命後に外モンゴルは独立を宣言し、その後ロシアの介入もあって自治権を獲得した。チベットもダライ=ラマ13世が独立を宣言したが認められなかった。
114字です。
3行問題なので、25字削る必要があります。
文字数調整
モンゴルとチベット両国では清朝の漢民族主導の中央集権化に対するへの不満が高まっていた。辛亥革命後に外モンゴルは独立を宣言し、その後ロシアの介入もあってり自治権を獲得した。チベットもダライ=ラマ13世が独立を宣言したが認められなかった。
87字になりました。
解答例・まとめ
今回の解答例は
両国で清の漢民族主導の中央集権化への不満が高まっていた。辛亥革命後に外モンゴルは独立を宣言し、ロシアの介入もあり自治権を獲得した。チベットも独立を宣言したが認められなかった。
とします。