「冊封体制について知りたい」
「冊封体制が崩壊する過程を把握したい」
「朝鮮、琉球、ベトナムの歴史を整理したい」
東大は、2020世界史で15世紀頃から19世紀末までの時期における冊封体制のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に具体的に20行(≒600字)以内で記述させる問題を出題しました。
そこで、この記事では以下のことを解説しています。
- 冊封体制とはなにか
- 朝貢貿易とはなにか
- 15世紀から19世紀の朝鮮外交史
- 15世紀から19世紀のベトナム外交史
- 15世紀から19世紀の琉球外交史
- 冊封体制が崩壊する過程
冊封体制についての理解が深まる記事になっておりますので、是非最後までお読みください。
講義
まず冊封体制について解説し、その後世紀ごとに中国・朝鮮・ベトナム・琉球・日本の外交史を解説します。
冊封体制とは
冊封体制を理解するために重要な語句の解説をします。
冊封
冊封とは、中国の皇帝が周辺諸国の支配者に王などの官職や爵位を与えることです。
これにより、中国皇帝と周辺諸国の支配者は名目的な君臣関係を結びました。
冊封を受けたということは中国皇帝から特定の地域の世襲による支配を認められたということです。
近隣諸国の君主は中国皇帝の権威を国内統治の安定化に利用するために冊封を受けました。
冊封体制
冊封体制とは、東アジアの伝統的な国際関係・国際秩序のあり方です。
言い換えると、中国の皇帝が周辺諸国の支配者とのあいだで形成した国際体制です。
中国皇帝が周辺諸国の支配者を冊封することにより成立する、中国王朝を君・近隣諸国を臣とする関係です。
朝貢貿易
朝貢とは、周辺諸国の支配者が中国の皇帝に貢物(みつぎもの)を献じて関係を結ぶことです。
中国の皇帝はこれに対して国賜とよばれる返礼を行いました。
この朝貢と返礼による物品のやり取りを朝貢貿易といいます。
朝貢貿易は周辺諸国にとって中国との貿易や文化交流を実現する貴重な機会でした。
近隣諸国からの朝貢に対して中国皇帝は貢物以上の返礼品を与えたため、周辺国にとって朝貢貿易の経済的利益は大きかったです。
冊封を受けた国は朝貢の義務がありました。
その一方で、冊封を受けていない国も朝貢することが認められていました。
15世紀
中国
15世紀前半の中国は、明の第3代皇帝・永楽帝の治世でした。
永楽帝は積極的な対外政策を展開し、鄭和の南海諸国遠征によって朝貢国を拡大しました。
明では海禁という貿易を朝貢貿易のみに限定する政策が採られたため朝貢貿易が活発化しました。
15世紀後半の明は北方からのオイラトの侵入に苦しめられ、拡張的な対外政策を転換することになります。
朝鮮
15世紀の朝鮮王朝は世宗の治世でした。
世宗は明に朝貢し、冊封を受けました。
この時代の朝鮮は科挙を実施し、朱子学を官学とするなど明の制度や文化を積極的に取り入れました。
その一方で、世宗は朝鮮語を表現する文字として、漢字に代り訓民正音を制定しました。
ベトナム
15世紀の初めに明の永楽帝がベトナム北部を支配しました。
その後明軍を退けて黎朝が成立しました。
黎朝は明に朝貢し、明朝の中央集権体制確立のための諸制度を国内に導入しました。
その後、黎朝はチャンパーを征服してベトナム南部にも支配を拡大しました。
琉球
14世紀の琉球では北山・中山・南山の3つの小国が抗争をしていました。
15世紀には中山王の尚巴志がこれを統一し、琉球王国が成立しました。
琉球王国は冊封を受け、朝貢貿易を軸とする中継貿易で繁栄しました。
琉球王国は中継貿易で東南アジアの香辛料、明の絹織物、日本の刀剣や硫黄などを扱いました。
琉球王国が中継貿易で繁栄した背景には、明の海禁があるとされています。
明が中国人の民間海上貿易を禁じたため、海外の物産を買い集めてそれを販売したり明の皇帝に朝貢したりすることで中継貿易での繁栄を実現しました。
日本
15世紀初めの日本は室町幕府の第3代将軍・足利義満の時代でした。
足利義満は将軍を退位した後、1404年に日本国王として明の冊封を受けて朝貢貿易の形式で行われる勘合貿易を開始しました。
足利義満の次の将軍・足利義持は勘合貿易を中断しましたが、その後室町幕府や有力な守護大名によって勘合貿易は再開されました。
16世紀
中国
16世紀の明は「北虜南倭」と呼ばれる2つの対外危機に直面していました。
そのうちの「南倭」とは、東南沿岸で後期倭寇の活動が活発となったことを指します。
後期倭寇は中国人を中心とする商人の集団で、積極的に貿易を行いました。
明の海禁のもとで私貿易は取り締まられたため、後期倭寇はそれに対抗するために武装船団を組織しました。
こうしたなかで交易圧力が拡大し、明朝は1570年前後に海禁をゆるめて民間の海上貿易を許しました。
その結果、中国の対外貿易は活発化することになります。
しかしこれは、明を中心とする国際秩序(すなわち朝貢と冊封)の動揺を意味しました。
朝鮮
豊臣秀吉の朝鮮侵攻(壬申・丁酉の倭乱)に際し、朝鮮は宗主国である明の援軍を受けました。
ベトナム
黎朝が分裂状態に陥りました。
琉球
明の海禁緩和やポルトガルの進出により琉球の中継貿易は衰退しました。
日本
銀の産出国としてこの時期の東アジアにおける商業活発化にかかわりました。
日本の銀と明の産品を交換する貿易に後期倭寇やポルトガル商人らが従事しました。
貿易による利益などを背景に、この時期の日本では織田信長や豊臣秀吉が統一事業を推進しました。
豊臣秀吉は日本を統一した後、朝鮮侵攻をしました。
17世紀
中国
17世紀の中国では、明に代わって女真族による征服王朝である清が支配者となりました。
清は東アジアの国際秩序を再編しましたが、伝統的な冊封体制は次第に変化していきました。
朝鮮
朝鮮は明と清の抗争では明を支援しました。
そこで清のホンタイジが朝鮮に侵攻しました。
朝鮮はこれに降伏し、清の宗主権を認めて朝貢国となりました。
その後明が滅亡すると、清を夷狄とみなして自らを中華文明の正統な後継者とする小中華意識を持つようになりました。
この時代の朝鮮王朝は海禁政策をとりましたが、日本へは通信使を派遣して国交を持ちました(朝鮮通信使)。
ベトナム
黎朝が清の冊封を受けました。
琉球
17世紀の琉球王国は薩摩藩の島津氏に侵攻され、服属しました。
しかしその後も朝貢貿易の経済的利益に注目した薩摩藩からの要請で明や清への朝貢を継続しました。
こうして琉球王国は日中両属体制を採ることとなりました。
日本
江戸幕府は朝鮮通信使を通じて朝鮮との国交を持ちましたが、明や清とは国交を結びませんでした。
18世紀
東アジア各国の18世紀外交史における特記事項はありません。
ただし、18世紀末になるとイギリス・清・インドの三角貿易がはじまるなど欧米諸国の進出がみられるようになったことには注意が必要です。
19世紀
中国
19世紀、欧米の東アジアへの進出が本格化しました。
清はアヘン戦争・アロー戦争に敗北し、アロー戦争後の北京条約では欧米諸国との対等外交を強要されました。
条約により開港場が増加し、外国公使の北京駐在などを認めました。
こうしてヨーロッパで形づくられた、対等な国どうしが締結する条約に基づく主権国家体制に東アジアが編入されました。
清が総理各国事務衙門を設置して諸外国と外交交渉を行うようになったことは主権国家体制を受け入れたことの象徴とされています。
清は欧米諸国とは対等な外交を行う一方で、周辺国との冊封関係を維持しました。
しかし1870年代以降、東アジア国際体制の変容が進みました。
日本とは対等な条約である日清修好条規を締結して対等な国交を樹立しました。
ベトナムでは清仏戦争の結果、清はベトナムの宗主権を放棄しました。
さらに、日清戦争後の下関条約では朝鮮の独立を認めました。
これにより、東アジアの伝統的な国際体制であった中国王朝による冊封体制は完全に崩壊しました。
朝鮮
1875年の江華島事件をきっかけに日本が朝鮮に圧力をかけ、日朝修好条規によって開国させられました。
日朝修好条規は朝鮮を独立国として扱い、朝鮮に対する清の宗主権を形式的に否定しました。
清は朝鮮への宗主権を主張してこれに反発し、日清の対立が激化しました。
清は壬午軍乱や甲申政変で宗主国としての朝鮮への影響力を確保しようとしました。
しかし、日清戦争で日本に敗れて締結した下関条約で朝鮮は清の宗主権を脱し独立しました。
これにより、清と朝鮮の冊封関係は消滅しました。
その後、朝鮮には大韓帝国が成立しました。
ベトナム
19世紀のベトナムでは、フランス人宣教師ピニョーの援助で阮福暎が西山朝を倒して阮朝が成立しました。
阮朝は清の冊封を受けましたが、国内では君主が皇帝を称しました。
(つまり、中国の皇帝と対等な肩書を名乗ったということになります。伝統的な冊封体制ではみられなかったことですね。)
その後、キリスト教の布教をめぐってフランスと阮朝の関係が悪化しました。
第一次仏越戦争の結果締結されたサイゴン条約では、コーチシナ東部をフランスに割譲しました。
その後もフランスの進出は続きましたが、清への朝貢は継続されました。
第二次仏越戦争では劉永福が黒旗軍を率いてフランス軍に抵抗しますが、ユエ条約で保護国化されました。
清がベトナムの宗主権を主張すると清とフランスの対立が激化しますが、清仏戦争の結果締結された天津条約で清がベトナムの宗主権を放棄しました。
清がフランスの保護権を認め、仏領インドシナ連邦が成立しました。
こうして、清とベトナムの冊封関係は消滅しました。
琉球
日本による台湾出兵をきっかけに琉球は沖縄県として日本に編入されました。
日本への編入により琉球から清への朝貢は停止され、清と琉球の冊封関係は消滅しました。
清は琉球処分に反発し、日清の対立は深まりました。
日本
19世紀半ばに日本は欧米諸国と不平等条約を締結しました。(日米和親条約・日米修好通商条約など)
そして明治維新後には本格的に主権国家体制に組み込まれました。
日本は主権国家として国境の画定を進め、主権が及ぶ範囲を明確化しようとしました。
北方ではロシアと樺太・千島交換条約を締結しました。
西方では日清修好条規を清と締結し、清と対等な外交関係を結んだ後に台湾出兵を行い、琉球処分により日中両属だった琉球を沖縄県として領有しました。
さらに、日清戦争後に下関条約を締結して台湾などを領有しました。
構想
リード文
第1段落
「近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式」
この文言から、今回の論述のメインテーマが冊封体制であることがわかります。
「ヨーロッパで形づくられた国際関係」
これは主権国家体制のことです。
主権国家体制では、主権国家どうしが対等な関係のもとで条約を締結します。
第2段落
15世紀頃から19世紀末まで
今回の論述における時期の指定です。
15世紀が明・永楽帝の時代、19世紀末が日清戦争やその後の下関条約締結の時期であるとわかれば今回の論述でどこからどこまでを書けば良いのか判断しやすいです。
東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容
今回の論述におけるテーマです。
冊封体制のあり方と近代における変容を書きます。
朝鮮とベトナムの事例を中心に
15世紀から19世紀末における朝鮮とベトナムにおける冊封体制のあり方を中心に書くことになります。
史料を事例として用いる
史料が3つ与えられ、それぞれ事例として用いることが指定されています。
また、用いた場合にそれを示す方法も具体的に示されていますので必ずそれにしたがってください。
指定語句
6つある指定語句から論述内容や方向性を考えていきましょう。
薩摩
この問題は朝鮮とベトナムの事例を中心にせよという指定がありましたが、琉球への言及も必要なことが分かります。
「薩摩」という指定語句は17世紀に薩摩が琉球を支配したことに言及しなさいという指示だからです。
下関条約
日清戦争後に日本と清が締結した条約です。
朝鮮の独立を認める内容を含み、東アジアにおける冊封体制を終わらせた条約といえます。
小中華
「小中華」とは、明が滅亡した後の朝鮮で生まれた思想です。
征服王朝である清ではなく、自らこそが儒教の伝統を継承した明の後継者だとする思想です。
条約
他に「下関条約」という指定語句もありますので、「〇〇条約」というかたちで用いるのではなさそうです。
ということは、「条約」はそれを締結する対等な国どうしの国際関係である主権国家体制について論じるための指定語句だと考えます。
清仏戦争
清仏戦争後の天津条約で清はベトナムの宗主権を放棄します。
朝鮮における日清戦争ー下関条約と同じ構図ですね。
朝貢
冊封体制について論じるということで、政治的なつながりといえる冊封だけでなく経済的なつながりである朝貢にも言及するよう指定されています。
資料
史料A
この史料からわかることは以下の通りです。
- 朝鮮で明の年号の使用が継続されていたこと
- 女真族の清を夷狄とみなし明の後継国家とは認めていなかったこと
- 朝鮮王朝は自らを明の儒教的伝統の正式な継承者と自認していたこと
小中華の意識が高まっていたことを示す史料となっています。
指定語句「小中華」とセットで使うことになりそうです。
史料B
この史料からわかることは以下の通りです。
- 19世紀のベトナムにフランスが進出していたこと
- フランス進出後のベトナム(阮朝)は清との冊封関係を維持していたこと
指定語句になっている清仏戦争より前の時代の話なので、前後関係に気をつけて言及しましょう。
史料C
この史料からわかることは以下の通りです。
- 琉球王国が明と日本などを結ぶ中継貿易で繁栄していたこと
指定語句「薩摩」に続いてこの史料からも琉球王国への言及が必須であることが分かります。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
東アジアでは中国皇帝が周辺国の支配者に官職や爵位を与える冊封による冊封体制が国際関係を形成した。15世紀、朝鮮は明の冊封を受け科挙の実施や朱子学の官学化など明の影響を受けた。ベトナムでは永楽帝による支配を退けた黎朝が明に朝貢した。琉球では琉球王国が成立し、冊封を受けて朝貢貿易を軸とする東アジアの中継貿易で繁栄した(史料C)。日本では室町幕府の足利義満が冊封を受け、勘合貿易を行った。16世紀の朝鮮では壬申丁酉の倭乱に際して宗主国である明の援軍を受けた。琉球の中継貿易はポルトガルの進出で衰退した。17世紀には清が朝鮮に侵攻し、朝鮮は清の朝貢国となった。明の滅亡後、朝鮮は清を夷狄とみなして自らを中華文明の正統な後継者とする小中華意識を持った(史料A)。朝鮮は海禁を実施したが日本へは通信使を派遣して国交をもった。琉球王国は薩摩の島津氏に服属したがその後も明や清への朝貢を継続し日中両属となった。日本の江戸幕府は明や清との国交を結ばなかった。19世紀には欧米諸国の東アジア進出が盛んになり清がアロー戦争後に締結した北京条約で欧米諸国との対等外交を強要されるとヨーロッパで形づくられた対等な国どうしが締結する条約に基づく主権国家体制に編入された。その後も清は冊封体制を維持したが日清修好条規で日本と清が対等な外交関係を結んだ。ベトナムでは阮朝がフランス進出後も清への冊封を継続した(史料B)が、フランスによる阮朝保護国化をきっかけに起きた清仏戦争後に清はベトナムの宗主権を放棄し、仏領インドシナ連邦が形成された。琉球が日本の沖縄県になり、朝鮮では日本が日朝修好条規締結で清の宗主権を否定し、それに清が反発すると日清戦争となり下関条約で清が朝鮮の独立を認めて朝鮮の宗主権を放棄して大韓帝国が成立した。東アジアの伝統的国際体制であった冊封体制は完全に崩壊した。
773文字です。
20行問題なので、174文字削る必要があります。
字数調整
東アジアでは中国皇帝が周辺国の支配者に官職や爵位を与える冊封による冊封体制が国際関係を形成しとられた。15世紀、朝鮮は明の冊封を受け科挙の実施や朱子学のを官学化など明の影響を受けした。ベトナムでは永楽帝による明の支配を退けた黎朝が明に朝貢した。琉球では琉球王国が成立し、は冊封を受けて朝貢貿易を軸とする東アジアの中継貿易で繁栄した(史料C)。日本では室町幕府の足利義満が冊封を受け、勘合貿易を行った。16世紀の朝鮮では壬申丁酉の倭乱に際してで宗主国である・明の援軍を受けた。琉球の中継貿易はポルトガルの進出で衰退した。17世紀には清が朝鮮に侵攻し、朝鮮は清の朝貢国となった。明の滅亡後、朝鮮は清を夷狄とみなして自らを中華文明の正統な後継者とする小中華意識を持った(史料A)。朝鮮は海禁を実施したが日本へは通信使を派遣して国交をもった。琉球王国は薩摩の島津氏に服属したがその後も明や清への朝貢を継続し日中両属となった。日本の江戸幕府は明や清との国交を結ばなかった。19世紀には欧米諸国の東アジア進出が盛んになり清がアロー戦争後に締結した北京条約で欧米諸国との対等外交を強要されるとヨーロッパで形づくられた対等な国どうしが締結するの条約に基づく主権国家体制に編入された。その後も清は冊封体制を維持したが日清修好条規で日本と清が対等な外交関係を結んだ。ベトナムでは阮朝がフランス進出後も清への冊封を継続した(史料B)が、フランスによる阮朝保護国化をきっかけに起きた清仏戦争後に清はベトナムの宗主権を放棄し、仏領インドシナ連邦が形成された。琉球が日本の沖縄県になり、朝鮮では日本が日朝修好条規締結で清の宗主権を否定し、それに清が反発するとして日清戦争となり下関条約で清が朝鮮の独立を認めて朝鮮の宗主権を放棄して大韓帝国が成立した。東アジアの伝統的国際体制であった冊封体制は完全に崩壊した。
596文字です。
何を削るか迷いましたが、設問に「朝鮮とベトナムの事例を中心に」とあるので琉球と日本に関する記述を中心に削りました。
解答例・まとめ
今回の解答例は
東アジアでは中国皇帝が周辺国支配者に官職や爵位を与える冊封体制がとられた。15世紀、朝鮮は明の冊封を受け朱子学を官学化した。ベトナムでは明の支配を退けた黎朝が明に朝貢した。琉球は冊封を受けて朝貢貿易を軸とする東アジアの中継貿易で繁栄した(史料C)。日本では室町幕府の足利義満が冊封を受け、勘合貿易を行った。16世紀の朝鮮は壬申丁酉の倭乱で宗主国・明の援軍を受けた。17世紀には清が朝鮮に侵攻し、朝鮮は清の朝貢国となった。明の滅亡後、朝鮮は清を夷狄として自らを中華文明の正統な後継者とする小中華意識を持った(史料A)。琉球王国は薩摩に服属した後も明や清への朝貢を継続し日中両属となった。19世紀には清がアロー戦争後に締結した北京条約で欧米諸国との対等外交を強要されヨーロッパで形づくられた対等な国どうしの条約に基づく主権国家体制に編入された。その後も清は冊封体制を維持したが日清修好条規で日本と対等な外交関係を結んだ。ベトナムでは阮朝がフランス進出後も清への冊封を継続した(史料B)が、フランスによる阮朝保護国化をきっかけに起きた清仏戦争後に清はベトナムの宗主権を放棄し、仏領インドシナ連邦が形成された。琉球が日本の沖縄県になり、朝鮮では日本が日朝修好条規締結で清の宗主権を否定し、清が反発して日清戦争となり下関条約で清が朝鮮の独立を認めて大韓帝国が成立した。冊封体制は完全に崩壊した。
とします。