「清浦奎吾内閣が成立した事情を整理しておきたい」
「第二次護憲運動の内容を知りたい」
「清浦内閣総辞職後の国内政治の状況を知りたい」
2021年の東大日本史第4問設問Bでは、「清浦奎吾内閣が衆議院を解散して衆議院議員総選挙が行われた際に、立憲政友会の総裁で子爵であった高橋是清がなぜ隠居して貴族院議員を辞職し、衆議院議員総選挙に立候補したのか」についてこの時期の国内政治の状況にふれながら3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の3つのポイントを中心に解説します。
- 清浦奎吾内閣が成立した背景
- 第二次護憲運動の内容
- 清浦内閣総辞職後の国内政治の展開
1920年代前半の日本の国内政治を整理できる内容です。
ぜひ最後までお読みください。
資料の読み取り
文章(3)
何人も同時に両議院の議員たることを得ず
この資料からは、貴族院議員と衆議院議員を兼ねることができないため、高橋是清が衆議院議員に立候補するためには貴族院議員を辞職する必要があったことがわかります。
文章(4)
華族の戸主は選挙権及被選挙権を有せず
華族の戸主は衆議院議員の選挙権と被選挙権を持たないため、高橋是清が衆議院議員総選挙に立候補するには隠居して華族の戸主の地位を譲る必要があったことがわかります。
講義
原敬内閣(1918年9月~1921年11月)
1918年に、最初の本格的な政党内閣として原敬が立憲政友会を与党として内閣を組閣しました。
原内閣は公共事業への積極的な投資(鉄道網や港湾施設の整備など)を通じて支持基盤の拡大を図りましたが、これは党利党略に基づく利益誘導政治との批判を招きました。
さらに、普通選挙の実施に反対したことで国民の不満が高まり、最終的には原敬は1921年に暗殺されました。
高橋是清内閣(1921年11月~1922年6月)
原敬の暗殺後、財政と金融の専門家であった大蔵大臣の高橋是清が政友会総裁に就任して首相の座を引き継ぎました。
しかし、原敬亡き後の政友会内部での求心力が欠けていたことから党内をまとめる政治力に限界がありました。
1922年、ワシントン会議の終了とともに政友会内部の対立が原因で高橋内閣は総辞職しました。
その後、野党第一党の憲政会は議席が少なかったため海軍軍縮の推進を背景に加藤友三郎や山本権兵衛といった海軍軍人を首相とする非政党内閣が続くこととなりました。
清浦奎吾内閣(1924年1月~6月)
1924年、摂政裕仁が狙撃される虎ノ門事件を受けて第二次山本権兵衛内閣が総辞職した後に清浦奎吾内閣が成立しました。
清浦内閣は貴族院議員を中心とした非政党内閣で、政党と距離を置いて組織されました。
元老西園寺公望から公正な選挙管理が期待されていたからです。
この内閣は非政党色が強かったため、政党内閣を望む勢力からの反発を招きました。
政友本党の成立
当時の与党であった立憲政友会内部で対立が生じ、高橋是清総裁は政党内閣の実現を目指し清浦内閣を批判していました。
しかし、党内には清浦内閣に協力しようとする議員が多く、床次竹次郎を中心とする反高橋派が立憲政友会を脱党し、清浦内閣を支持する政友本党を結成しました。
これにより立憲政友会は分裂し、政友本党は清浦内閣の与党となりました。
第二次護憲運動
高橋是清率いる立憲政友会は、加藤高明の憲政会や犬養毅の革新倶楽部と護憲三派を結成して非政党内閣である清浦内閣を「超然内閣(特権内閣)」と批判しました。
護憲三派は「普選断行、政党内閣の実現、貴族院・枢密院改革」を掲げて、政党内閣の実現を目指す第二次護憲運動を展開しました。
第15回衆議院議員総選挙
清浦内閣は衆議院を解散して総選挙に臨みましたが、政友本党は護憲三派との選挙戦で大敗し、護憲三派が圧勝しました。
この結果、清浦内閣は短命に終わり、総辞職に追い込まれました。
高橋是清の対応
立憲政友会総裁であった高橋是清は総選挙で立憲政友会を勝利に導き、党勢を拡張するために自らが貴族院議員の立場を離れる必要があると判断しました。
貴族院議員である限り「貴族院中心の内閣を批判する」立場として説得力に欠けるため、華族の戸主を辞し、衆議院議員として総選挙に臨む決断をしました。
この対応は、党内での指導力を強化し、政友会の議席拡大を目指すものでした。
加藤高明内閣(1924年6月~1926年1月)
1924年6月、衆議院議員総選挙の結果を受けて清浦内閣が総辞職して第一党となった憲政会の総裁である加藤高明が首相に就任しました。
これにより、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三党からなる護憲三派内閣が発足しました。
加藤高明内閣は1925年に重要な二つの法律を制定しました。
まず、普通選挙法により衆議院議員選挙の選挙資格が満25歳以上の男子に拡大され、納税額による選挙権の制限が撤廃されました。
これによって男子普通選挙が実現し、より広範な層が政治に参加できるようになりました。
一方で、同時期に制定された治安維持法は国体の変革や私有財産制の否認を目的とする政治運動を取り締まるための法律でした。
この法律により、共産主義や社会主義運動を抑圧してそれらの運動に関わる組織や人々を取り締まる体制が整えられました。
この二つの法律は日本の政治体制を民主化する一方で、急進的な改革運動を抑制する役割を果たしました。
解答例
貴族院中心の清浦内閣支持をめぐり政友会が分裂し、政党内閣実現を目指す第二次護憲運動を行う政友会が再び政権を担うには、自ら貴族院議員を辞職し衆議院議員総選挙に立候補すべきと考えた。
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