【東大日本史2020】江戸時代、改暦の際に依拠した知識がどのように推移したか|第3問B

東大日本史2020第3問設問B江戸時代、暦を改める際に依拠した知識の推移 日本史

「徳川吉宗が漢訳洋書の輸入制限を緩和したことは蘭学の発展にどのように影響したの?」
「蕃書和解御用の設置により蘭学はどのように発展したの?」
「開国後に設立された蕃書調所ではどのように西洋の学問を学び、その後どう発展したの?」

2020年の東大日本史第3問Bでは、江戸時代に暦を改める際に依拠した知識がどのように推移したのかを、幕府の学問政策とその影響に注目しながら3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、以下の3つのポイントを中心に解説します。

  • 徳川吉宗による漢訳洋書の輸入制限緩和とその影響
  • 蕃書和解御用の設置とその影響
  • 開国後の蕃書調所での西洋学問の吸収と発展

江戸幕府の蘭学・洋学に関する政策を整理し、時代ごとの知識の変化をわかりやすく解説します。
ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(1)

元の暦/明で作られた世界地図

中国の知識に依拠して暦が作成されていたことが示されています。

文章(3)

西洋天文学の基礎を記した清の書物(中略)幕府が判断して、1730年に刊行が許可され、広く読まれるようになった

享保期1730年に実学奨励の一環として実施された漢訳洋書の輸入制限緩和により、中国語に翻訳された西洋天文学が普及していったことがわかります。

文章(4)

天文方に人員を補充して暦の修正に当たらせ、以後天文方の学術面での強化を進めていった

洋学の成果を取り入れながら天文学が発展していったことを読み取ることができます。

文章(5)

寛政暦:清で編まれた西洋天文学の書物をもとに

寛政暦は中国語に翻訳された西洋天文学に依拠して作成された。

天保暦:オランダ語の天文学書の翻訳を完成し、

天保暦:蘭学の発達により日本語に翻訳された西洋天文学が学ばれるようになった。

講義

幕府の蘭学(洋学)振興

18世紀前半:漢訳洋書の輸入制限の緩和

8代将軍徳川吉宗は享保の改革の一環として、実学(実用的な学問)と新しい産業を奨励しました。
その一環で、1720年に漢訳洋書の輸入制限を緩和する措置を取りました。
この緩和により、科学技術などに関する書籍の輸入が促進されましたが、キリスト教に関する書籍は引き続き輸入禁止とされました。

さらに吉宗は青木昆陽や野呂元丈にオランダ語の習得を命じました。
この時期から西洋の知識が急速に普及し始め、医学や天文学といった実用的な分野が発展していきます。
こうした学問の奨励は、後の蘭学興隆の基礎を築きました。

18世紀後半:蘭学の発展と民間への普及

18世紀後半には西洋の実証的な医学が日本で受け入れられるようになり、民間でも蘭学への関心が高まりました。代表的な例として、オランダの解剖書を翻訳した『解体新書』が挙げられます。
この翻訳事業を契機に、蘭学は医学だけでなく多岐にわたる学問分野で飛躍的に発展しました。
西洋の実証的な手法を取り入れたことで、科学的な研究や実用的な学問の発展が大きく促進されました。

19世紀前半:蕃書和解御用の設置と蘭学の展開

19世紀前半に江戸幕府は西洋の科学技術の吸収を本格化させるため、1811年に天文方の高橋景保からの建議を受けて蕃書和解御用を設置しました。
この組織は、オランダ語書籍の翻訳局として多くの洋学者を集めて洋書を日本語に翻訳しました。
これにより、これまでの漢訳洋書を介した学習から日本語訳を通じた直接的な西洋学術の導入へと移行しました。

蕃書和解御用の設立は蘭学の発展を促進し、科学技術の振興に寄与しました。
蕃書和解御用は翻訳だけでなく、外国船が来航した際には現地に出向いて交渉を行うなど幕府の外交活動にも貢献しました。

19世紀前半には長崎や大坂など地方でも蘭学を学ぶ動きが高まりを見せ、全国的に洋学が広がっていきます。

幕府は蘭学の発展を推進する一方で、蘭学がもたらす思想的な影響に対して警戒を強めました。
特に、政治・社会思想が幕府の統治に悪影響を及ぼすことを恐れ、これらの研究を科学技術の分野に限定しようとしました。
この時期、洋学を取り巻くいくつかの事件も発生しています。
たとえば、シーボルト事件ではシーボルトが国外持ち出し禁止の日本地図を所持していたことが発覚し、国外追放され、高橋景保ら関係者も処罰されました。
また、蛮社の獄ではモリソン号事件を批判した渡辺崋山や高野長英が処罰されるなど、幕府に対する批判的な言論が厳しく抑え込まれました。

このように、洋学は徐々に発展しつつも幕府の厳しい統制のもとで限られた分野において展開されていきます。
特に医学・兵学・地理学といった実学に重点を置くことで、洋学は実用性を高めていきました。

19世紀半ば:蕃書調所の設立と洋学の拡充

19世紀半ば、欧米諸国の強大な軍事力に直面した幕府は西洋技術の導入を急務としました。
これを背景に、1855年に蕃書和解御用を独立させ、洋学の専門教育機関として蕃書調所を設立しました。
蕃書調所は西洋の学問と技術を学ぶ場となりました。

蕃書調所では軍事を中心とした洋学教育が行われ、欧米諸国の語学や理化学の教育・研究、外交文書の翻訳にも取り組みました。
西周や津田真道など、後に日本の近代化を支える学者たちが教官に任命されました。
当初、入学は幕臣に限定されていましたがのちに諸藩士にも門戸が開かれ、洋学の普及が進みます。

1863年には蕃書調所は開成所と改称され、教育内容も拡充されました。
これまで医学や軍事などの自然科学が中心だった洋学が、次第に哲学・政治・経済の分野にまで拡大しました。
開成所は後に大学南校から東京開成学校へと発展し、最終的に東京大学の設立に至ります。

一方、医学の分野でも洋学の影響が強まりました。
1860年には、民間で始まった種痘所が幕府の直轄機関となり、医学所と改称されます。
この医学所は、のちに大学東校、東京医学校と発展して現在の東京大学医学部に受け継がれました。

蕃書調所と医学所の設立は、単に知識を吸収する場を提供するだけでなく、日本が欧米に対抗するための人材育成と技術習得の基盤を築きました。
これにより、洋学は日本の近代化の推進力となり、幕末から明治期にかけての政治・経済・社会の変革を支えた重要な要素となったのです。

解答例

元禄期は中国の知識に依拠して暦が改められた。漢訳洋書の輸入制限緩和により寛政期には中国語に翻訳された西洋天文学に依拠し、天保期には蘭学が発達し日本語訳した西洋天文学に依拠した。
(88文字)

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