「8世紀の日本はどのようにして唐の文化を吸収したの?」
「鎮護国家思想と毛筆による書の普及にはどんな関係があるの?」
「9世紀の日本で展開された唐風文化はどのような特徴があるの?」
2020年の東大日本史第1問設問Bでは、中国大陸から毛筆による書が日本列島に伝えられ、定着していく過程において唐を中心とした東アジアの中で律令国家や天皇家が果たした役割を4行(約120字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、次の3つのポイントを中心に解説します。
- 鎮護国家思想とそれによる書の全国への広まり
- 天平文化における盛唐文化の吸収
- 弘仁・貞観文化における漢詩文や唐風の書の定着
8世紀から9世紀にかけて唐風文化が日本に定着していく過程を理解できる記事となっています。
是非最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(2)
唐の皇帝太宗は、王羲之の書を好み、模本をたくさん作らせた。/遣唐使はそれらを下賜され、持ち帰ったと推測される。
8世紀当時、唐が東アジアの政治・文化の中心であったため、日本は唐の文化を積極的に学び、取り入れました。
唐の皇帝太宗が王羲之の書を特に好んだことで、王羲之の書が漢字文化圏全体で模範として尊重されるようになり、日本においても教科書や手本として定着しました。
遣唐使が唐に派遣され、そこで得た文化や文物の一つとして王羲之の模本が持ち帰られ、日本で普及しました。
文章(3)
律令国家においては毛筆の書が国家運営や仏教興隆に不可欠な技術であり、教育機関や宗教活動を通じて広く普及したことがわかります。
大学寮には書博士が置かれ、書学生もいた
律令国家の官吏養成機関である大学寮では、毛筆による書の教育が体系化されて書博士と呼ばれる専門の教育者が書を教え、学生たちが学んでいました。
これは、中央の官人に書が普及していたことを示しています。
長屋王家にも(中略)書の手本を模写する人が存在した
長屋王家には書の手本を模写する人々が存在しています。
王族の家においても書の技術が尊重され、模写を通じて書の文化が広がっていたことがわかります。
天平年間には国家事業としての写経所が設立され、多くの写経生が仏典の書写に従事していた
鎮護国家思想のもと、仏典の書写が国家事業として行われました。
天平年間には写経所が設立されて多くの写経生が仏典を書き写していたことから、毛筆による書が国家の宗教的・文化的活動において不可欠であったことが明らかです。
特に、聖武天皇の国分寺建立や大仏造立事業と結びついて、毛筆による書が仏教興隆の一環として定着していったことが理解できます。
文章(4)
律令国家の行政運営を支えるために文書を使用することが基本となり、その結果として毛筆による書が日本全土で定着する環境が整えられていったことがわかります。
戸籍を作成/郡司らが計帳などと照合
律令国家では、中央集権的な統治を行うために律令や法令を漢字で記録して管理する文書行政が基本となっていました。
郡司などの地方官も計帳の作成や税の徴収の際に漢字を使用して業務を行っていたことから、地方でも毛筆を使った書の技術が求められ、地方の官吏たちにまで毛筆による書が広がっていきました。
文章(5)
聖武天皇の遺愛の品(中略)王羲之の真筆や手本があった/光明皇后が王羲之の書を模写した
唐から下賜された王羲之の書は、中華文明の象徴として日本でも高く評価されました。
天皇家、特に聖武天皇や光明皇后がその書を重んじ、書写を通じて唐風の書を学び広めました。
これにより、唐風の書が天皇家を中心に定着していきました。
天皇家が積極的に唐風の書を学ぶことで、貴族や地方豪族たちもそれに倣い、同様に唐風文化を学びました。
このようにして、中央から地方まで唐風の書が広まっていきました。
留学した空海・橘逸勢も(中略)王羲之の書法を学んだ
空海や橘逸勢などの遣唐使として留学した人物たちも、唐で王羲之の書法を学び、日本にその技術を持ち帰りました。
彼らの活動を通じて、唐風の書が日本の貴族文化の中に深く根付いていきました。
講義
鎮護国家思想
鎮護国家思想は仏教によって国家の安定を図る思想であり、王が仏教に帰依することによって国家が護持されると考えます。
日本では7世紀後半以降に発展しました。
特に天武天皇の時代から仏教は国家を支える宗教として重視され、国家の安定を図るための法会や祈祷が行われました。
天武天皇は仏教経典である『金光明経』や『仁王経』を重視し、大官大寺や薬師寺といった官立寺院を建立して仏教の力を国の安定に結びつけました。
聖武天皇の時代(8世紀前半)には社会不安が増し、さらに仏教が国家の中心的な役割を果たすようになりました。聖武天皇は疫病や飢饉、政争の混乱が続く中で仏教の鎮護国家思想に基づいて国家の安泰を図るため、国分寺や国分尼寺の建立、大仏造立事業を進めました。
また、写経を推進し、経典を全国に広めることで仏教を通じた国家安定の祈りを全国に広げました。
このようにして、仏教は国家の安定と繁栄を守る存在として国家と結びつくこととなり、国家の保護のもとで大いに発展して国家運営の宗教的基盤となりました。
天平文化
天平文化は奈良時代の国際色豊かな貴族文化です。
中央集権的な国家体制のもと、国の富が中央に集中したことで花開きました。
唐への朝貢のために遣唐使がほぼ20年ごとに派遣され、日本は唐を中心とする東アジア文化圏に共通の要素である漢字、仏教、儒教を中心に唐の先進的な制度や文物、思想を学びました。
また、当時の唐は中央アジアや西アジアとも交流があり、その国際的な影響が天平文化にも及びました。
こうした背景から天平文化は唐やペルシア、インドなどの影響を受けた国際性の豊かな文化となりました。
そして、平城京はその文化の集積地として繁栄しました。
代表的な遺産である正倉院の宝物には、こうした広範な国際交流の成果を示す工芸品が数多く含まれており、天平文化の豊かさと国際的な性格を今に伝えています。
弘仁・貞観文化
弘仁・貞観文化は平安時代前期(9世紀)に平安京を中心として栄えた貴族文化で、唐風の文化です。
嵯峨天皇と清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化と呼ばれています。
唐文化を積極的に取り入れながらも、次第にそれを消化していったことが特徴です。
この時期、中国の影響で文章経国思想が広まりました。
文章経国思想とは、漢詩文の文化的教養が政治において有効であるとする考え方です。
貴族や地方の官吏には漢文や漢詩の教養が必要とされました。
この思想のもとで文人官僚が重用されたため、貴族の子弟は大学に通い、儒教を学ぶ明経道や、漢詩文や中国史を学ぶ紀伝道(文章道)が盛んになりました。
その影響で嵯峨天皇や淳和天皇の命によって『凌雲集』などの漢詩文集が編纂され、貴族の間で漢文学の習熟が進みました。
さらに、嵯峨天皇は唐風の儀礼や文化を取り入れて宮廷儀式を整備していきました。
唐風文化の隆盛に伴って唐風の書道(唐様)が広がり、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三人は「三筆」として後世に称されることとなります。
解答例
律令国家は東アジア文化の中心の唐に遣唐使を派遣し書の手本を持ち帰らせ、鎮護国家思想で写経を行わせ、文書行政の徹底で書を各地に広めた。天皇家は王羲之の書を収集し、模写に努めることで、大学や国学で唐風の書を学ぶことを貴族や地方豪族に促した。
(118文字)