【東大日本史2019】13世紀後半~14世紀前半に持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣された理由|第2問設問B

13世紀後半~14世紀前半に持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣された理由 東大日本史

2019年の東大日本史第2問設問Bでは、13世紀後半から14世紀前半に持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣された理由について、朝廷の側の事情や承久の乱以後の朝廷と幕府の関係に留意して3行(約90字)以内で説明する問題が出題されました。

本記事では、この時期の皇位継承問題と幕府の影響力について詳しく解説します。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(2)

後嵯峨上皇は、次に院政を行う人物(次の治天の君)を決めないまま亡くなりました。
その結果、天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂し、皇位継承をめぐる対立が発生しました。

文章(3)

持明院統と大覚寺統の双方が競うように鎌倉幕府へ使者を派遣しました。
これは、皇位継承や治天の君の地位を決定するにあたり、幕府の支持を得ることが重要だったためと考えられます。

系図

持明院統と大覚寺統はともに天皇を輩出している
両統が交互に皇位に就いているわけではない

⇒鎌倉幕府の意向に添うことができれば、常にどちらの統にも皇位継承のチャンスがある
⇒鎌倉に使者を派遣して

講義:持明院統・大覚寺統の対立と幕府の役割

1:承久の乱後の皇位継承への幕府の関与

承久の乱以降、幕府は皇位継承や治天の君として院政を行う上皇の決定に深く関与するようになりました。
後嵯峨上皇が院政の後継者を決めないまま死去したことで皇統が持明院統と大覚寺統に分裂し、双方が皇位継承や院政の主導権をめぐって対立しました。

2:皇位継承をめぐる争いと幕府への依存

朝廷には皇位継承を決定する明確な規定がなく、さらに天皇家領荘園の配分をめぐる争いも続いていたため、両統とも幕府の支持を得ることが不可欠となりました。
幕府は特定の統に肩入れせず、双方を尊重する姿勢を取ったため、持明院統と大覚寺統のどちらにも皇位継承の可能性が残されました。
そのため、両統は幕府の支持を得るべく、鎌倉へ使者を送って自らに有利な皇位継承を実現しようと画策しました。

3:両統迭立の導入と幕府の影響力

幕府は両統の対立を調停するために両統から交互に天皇を出す「両統迭立」を勧め、1317年には次代の天皇について両統が協議して決めるよう申し入れました。
これにより、翌年に後醍醐天皇が即位しましたが両統の対立は解消されず、その後も幕府の朝廷に対する影響力は続きました。

解答例

皇位継承をめぐる争いのなかで、持明院統と大覚寺統は幕府の支持を得ようとして鎌倉へ使者を派遣した。幕府の朝廷への影響力が強く、次代の天皇の決定に幕府が深く関与していたためである。(88文字)

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