ロシアの農奴解放令によって農民の生活状況が改善されなかった理由/東大世界史2021第2問・問1(b)

東大世界史2021 第2問問1(b) ロシアの農奴解放令 によって農民の生活状況が改善されなかった理由 世界史

「ロシアの農奴解放令によって農民の生活がどう変化したのかを知りたい」
「ロシアで農奴解放令が出された背景を知りたい」
「農奴解放令前後のロシア史を整理しておきたい」

東大は世界史2021第2問・問1(b)で、「ロシアの農奴解放令によって農民の身分は自由になったが生活状況はあまり改善されなかった理由」を3行(≒90字)以内で説明させる問題を出題しました。

19世紀半ばにロシアはクリミア戦争での敗戦とそれによる南下政策の失敗を経験します。
近代化の必要性を痛感し、それを実現するために農奴解放令を出すなどしました。
しかし、この近代化は憲法を制定しないなど不徹底なものでした。
このタイミングで西欧のような近代化ができなかったことからロシアでは皇帝専制政治への不満がたまっていき20世紀前半のロシア革命につながっていきます。

この記事では、以下のことを解説します。

  • 19世紀ロシアの自由主義への対応
  • ロシアが19世紀半ばに農奴解放令を出すなど近代化を目指した背景
  • 農奴解放令を出した後のロシアの社会情勢

19世紀ロシア史の流れが理解できる記事ですので、是非最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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講義

まず、この問題のメインテーマである農奴解放令について解説します。

その後、19世紀のロシア史を皇帝ごとに整理します。
概略であることに注意してください。

農奴解放令

19世紀半ばにロシアの皇帝アレクサンドル2世が発布した勅令です。
近代化を目指した「大改革」の目玉となる政策でした。

農奴解放には領主貴族層からの激しい反対があり、一部領主貴族に妥協した内容としました。

その結果、土地を無償で農奴に提供するのではなく、農奴は領主から土地を有償で買い取る必要があるとしました。

農奴にはほとんど財産がないため、買い取りのための資金を政府から借り入れて返済する必要がありました。

地域共同体ミールが返済の連帯保証を負ったため、農奴は完済までミールに縛り付けられました。(移動の自由を獲得できませんでした。)
また、完済までは土地も農民個人ではなく農村共同体ミールに引き渡されました

加えて、領主貴族への妥協により農奴への分与地は狭いものでした。

以上が農奴解放令の解説です。

この後は、19世紀ロシア史を概観します。

アレクサンドル1世(19世紀初め)

ナポレオンとの戦い

アレクサンドル1世はアウステルリッツの三帝会戦に敗れ、ナポレオンとティルジット条約を結んで大陸封鎖令に協力します。

すると、イギリスから工業製品が輸入できず国内で工業製品が不足します。
また、イギリスに穀物が輸出できず農業も混乱します。

こうした国内経済の混乱を解消するために、大陸封鎖令に違反してイギリスとの貿易を再開します。

それに対し、ナポレオンはロシア遠征を行いますがロシアはこれを撤退させます。

翌年、ライプチヒの戦いでナポレオンに勝利します。

ロシアはナポレオンとの戦いには最終的に勝利しましたが、ナポレオンがヨーロッパ各地に広げた自由主義の影響を受け続けることになります。

自由主義:国家による統制より個人の自由を優先する思想。
     参政権、所有権、経済活動の自由などを求めた。
     ロシアでは農奴制の廃止や立憲政の要求が主たる要求となった。

ウィーン体制の維持

ウィーン体制の維持に中心的な役割を果たします。

ウィーン体制とは、フランス革命前の領土と主権者を正統とする正統主義に基づいて自由主義を抑圧する国際秩序のことです。

神聖同盟の結成を提唱し、イギリス・オーストリア・プロイセンとの四国同盟にも参加します。

ニコライ1世(19世紀半ば)

デカブリストの乱

ニコライ1世が即位する日に、自由主義的な改革を求めた青年貴族らがデカブリストの乱をおこします。

反乱はすぐ鎮圧されました。

反自由主義

その後もポーランド蜂起を鎮圧し、ハンガリー民族運動を鎮圧するなど東欧の反革命、反自由主義の中心となります。
ロシアのこうしたあり方により、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれました。

南下政策

そうしたなかで、ロシアは不凍港と地中海への出口を求めて南下政策をとり、東方問題に介入しました。
特に、ダーダネルス・ボスフォラス海峡の航行権獲得を最大の目標にしました。

東方問題:オスマン帝国の領土・民族問題をめぐるヨーロッパ列強国間の外交問題の総称。
    1820年代のギリシア独立戦争から70年代の露土戦争までの一連の出来事を指す。

具体的には、以下のような対応を取りました。

  • ギリシア独立戦争でギリシアを支援
  • エジプト=トルコ戦争でトルコを支援
  • トルコとのクリミア戦争

クリミア戦争では、ロシアの南下を警戒したイギリス・フランス・サルデーニャがオスマン帝国を支援します。

アレクサンドル2世(19世紀後半)

クリミア戦争

ニコライ1世はクリミア戦争中に急死し、次のアレクサンドル2世のときにクリミア戦争が終結します。

クリミア戦争ではロシアが敗北し、ロシアの地中海進出は頓挫することになります。

この英仏軍等に対する敗北により、ロシアは自国の近代化の遅れを自覚することになります。

そして、改革の必要性を唱える官僚や知識人が増加します。

大改革

国内のこうした声に応えるべく、アレクサンドル2世は

  • 農奴解放令
  • 工業化の推進
  • 地方自治機関の設置  
  • 鉄道建設の推進

などの近代化のための改革を行います。

これらは軍事力の強化など皇帝権力の安定・強化を目指すものであり、憲法制定による立憲君主制の導入がないなど不徹底なものでした。

反動

不徹底な改革に対し、知識人(インテリゲンツィア)らの批判の声が強まると政府は反動的姿勢を強め、専制政治への回帰を図ります。

ナロードニキ運動

そうした政府の動きに対し、都市の知識人や学生が「ヴ=ナロード」(人民のなかへ)を標語として農村に赴き、農民への啓蒙活動を繰り広げました。
これがナロードニキ運動です。

政府は、ナロードニキ運動を厳しく弾圧しました。

暗殺

こうしたなかで一部の知識人・学生がテロリズム(暴力主義)にはしり、アレクサンドル2世を暗殺しました。

その後、ロシアは再び皇帝の専制権力強化路線に立ち戻ることとなりました。

答案作成

字数を気にせず書いてみる

書くにあたり、設問文にある対比構造に注目して「身分(自由か不自由か)」と「生活状況」の区別に注意します。
農奴解放令の結果として重要なフレーズである「完済までミールに縛り付けられた」は移動の自由がないことを指しています。
これは生活状況ではなく身分に関する記述です。
今回は書かないほうがよいでしょう。

皇帝は領主貴族の激しい反対を考慮し、農民に土地を有償で買い取らせた。高額な借入金を返済する必要があり、完済まで土地は返済を連帯保証した農村共同体ミールへ引き渡され、かつ分与地は狭かったため。

95字です。

3行問題なので、6文字減らす必要があります。

字数調整

皇帝は領主貴族の激しい反対を考慮し農民に土地を有償で買い取ら購入させた。高額な借入金を返済する必要があり、完済まで土地は返済を連帯保証した農村共同体ミールへ引き渡され、かつ分与地は狭かったため。

89字になりました。
ギリギリ3行ですね。

解答例・まとめ

今回の解答例は

皇帝は領主貴族の反対を考慮し農民に土地を有償購入させた。高額な借入金を返済する必要があり、完済まで土地は返済を連帯保証した農村共同体ミールへ引き渡され、かつ分与地は狭かったため。

とします。

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