「トルキスタンの歴史を整理したい」
「トルキスタンにはいつどんな勢力が進出したんだろう」
「そもそもトルキスタンはいつ頃からなぜトルキスタンと呼ばれるようになったんだろう」
東京大学は2022年度入試において、世界史第1問で8世紀から19世紀のトルキスタンの歴史的展開について20行で記述させる問題を出題しました。
この記事では、以下のことについて解説します。
- リード文から何をどう読み取ってヒントにするか
- 8つの指定語句をどう活用するか
- 東西トルキスタンの8世紀から19世紀の歴史
東西トルキスタンの歴史を整理したい人にとても役に立つ記事となっています。是非最後までご覧ください!
構想
リード文
リード文から何を読み取り、解答作成にどう活かすかを解説します。
第1段落
ペルシア語で
わざわざ「ペルシア語で」と書いてありますので、イランやイラン系民族とのつながりを示す事実があればそれを優先して記述したいですね。
例えば、ソグド人はイラン系の民族です。
また、指定語句にもなっているトルコ=イスラーム文化はイラン=イスラーム文化の影響を受けて成立しています。
その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきた
いつ・どんな勢力が進出してきたかを書くことの優先度が高いと判断できます。
もちろん、進出してきた勢力がトルキスタンに建国した国があるならその国の名称を書くことも必須です。
指定語句でいうと、「宋」「乾隆帝」はトルキスタンに進出してきた勢力として言及することになります。
トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった
トルキスタンに成立した国が周辺に進出した場合、それに言及する必要があるようです。
指定語句でいうと、「アンカラの戦い」「バーブル」は明らかにトルキスタン内部の出来事に関連する語句ではないので、周辺地域への影響という文脈で言及することになります。
第2段落
8世紀から19世紀まで
時期の指定があります。
なぜ7世紀でも9世紀でもなく、8世紀からなのか。
それは、8世紀というのはタラス河畔の戦いでイスラーム勢力がトルキスタンに進出した時期だからです。
これを時期の指定から思いつく必要があります。
時期の指定から思いつくことが可能だからこそ、東大は「タラス河畔の戦い」を今回の指定語句にしていないのだと思います。
なぜ18世紀までではなく19世紀までなのか。
それは、ロシアがトルキスタンに南下してきた時期だからです。
今回の論述は、ロシアのトルキスタンへの南下とその影響に言及して終えることになりそうです。
指定語句
東大世界史では、指定語句から関連事項を連想して論述の骨格をつくることが大変重要となります。
それぞれの指定語句について、何を連想すべきか見ていきましょう。
アンカラの戦い
アンカラの戦いは、ティムール朝がオスマン帝国を破った戦いです。
トルキスタンでの出来事ではありませんが、今回の指定語句になっています。
これは、リード文でも解説しましたが「周辺地域への影響」という文脈での言及となります。
つまり「ティムール朝は西方に進出した」という1文が必要不可欠であることがわかります。
カラハン朝
カラハン朝は10世紀に成立したトルコ系イスラーム王朝です。
東西トルキスタンを支配し、トルコ化を進めました。
トルキスタンの歴史を語るうえで外せない国です。
乾隆帝
清の皇帝です。
彼の業績は多いですが、今回は当然トルキスタン関連のことに言及する必要があります。
トルキスタンに進出してきた勢力としての登場ですから、藩部として支配したことへの言及となります。
その際、東トルキスタンに「新疆」という名をつけたことにも言及したいです。
宋
乾隆帝と同じく、トルキスタンへ進出した勢力としての言及になります。
宋はトルキスタンに進出するほど軍事力の強い国ではありませんでした。
ではなぜ「宋」が指定語句なのか。
宋は金と結んで遼を滅ぼし、その影響で西遼が成立していますのでその文脈での登場ですね。
西遼の成立経緯について、ある程度字数を割いて説明することになりそうです。
トルコ=イスラーム文化
ティムール朝のときにトルキスタンで成立した文化です。
ティムール朝関連でいうと、「アンカラの戦い」に続いて2つ目の指定語句です。
また、「イスラム」ではなく「イスラーム」と表記していることにも注意です。
少なくともこの問題においてはイスラーム教・イスラーム教徒のことを「イスラム」「ムスリム」ではなく「イスラーム」「イスラーム教徒」と表記しておくのが無難でしょう。
バーブル
ムガル帝国の建国者です。
しかし、ムガル帝国はインドに成立した帝国です。
これとトルキスタンをどう関連付けるかを考える必要があります。
そして、「バーブルはティムールの子孫であり、遊牧ウズベクに敗れて南進した」という事実にたどり着くことが求められます。
なお、次の指定語句「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」が上記事実にたどり着くためのヒントになっています。
遊牧ウズベクが建国したのがこの「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」だからです。
ブハラ・ヒヴァ両ハン国
今回の指定語句のなかで、これが1番ありがたいです。
なぜかというと、この指定語句があることによって「ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国」と書かずに済むからです。「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」と書いてOKだとわかれば、4文字の節約が可能です。
建国とロシアによる保護国化で2回登場しますから、合計8文字の節約です。
字数がタイトな東大世界史論述のなかで、この節約は非常にありがたいですね。
また、この指定語句の存在によりコーカンド=ハン国の扱いに注意しなければならないことも連想できます。
具体的には、3ハン国のなかでコーカンド=ハン国のみ成立が遅く、ロシアの保護国にもなっておらず併合されています。
ホラズム朝
ホラズム朝は13世紀を最盛期とするトルコ系のイスラーム王朝です。
ブハラやサマルカンドといった交易の拠点を支配して繁栄しましたが、最盛期がチンギス=ハンと重なるためどうしても影が薄くなっています。
そんなホラズム朝を、西トルキスタンを支配した国家の1つとして必ず登場させよという意味での語句指定だと考えます。
講義
8世紀
東トルキスタン
唐が安西都護府を設置して支配しました。
このときの唐は、それぞれの民族の首長を州などの長官に任命して間接的に統治しました。
この統治のありかたを羈縻政策といいます。
この時代には主にゾロアスター教を信仰するイラン系のソグド人が交易で活躍していました。
西トルキスタン
東トルキスタンと同様に唐が支配し、ソグド人が交易で活躍していました。
そのため、この地は「トルキスタン」ではなく「ソグディアナ」と呼ばれていました。
その後、751年にタラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利すると、これをきっかけにこの地のイスラーム化が進展します。
それにともない、イスラーム商人の活動も活発になっていきました。
9世紀
東トルキスタン
モンゴル高原を支配したトルコ系のウイグルが、同じくトルコ系のキルギスに敗北して滅亡します。
このとき、一部のウイグル人は西に逃れてこの地に進出しました。
これにより、東トルキスタンのトルコ化が進みました。
また、東トルキスタンでもイスラーム化が進展したのでウイグルがイスラーム化することになります。
西トルキスタン
東トルキスタンと同様に、ウイグルの影響でトルコ人が西トルキスタンに進出します。
9世紀終盤に、ブハラを首都としてイラン系のサーマーン朝が成立します。
中央アジア初のイスラーム王朝です。
イスラーム王朝が成立したため、トルコ人のイスラーム化が加速します。
10世紀
東トルキスタン
10世紀半ばに初のトルコ系イスラーム王朝であるカラハン朝が成立しました。
西トルキスタン
10世紀末にサーマーン朝はカラハン朝に滅ぼされました。
パミール高原の東西をカラハン朝が支配したことでこの地のトルコ化が進み、「トルキスタン」と呼ばれるようになります。
11世紀
東トルキスタン
引き続きカラハン朝が支配しました。
西トルキスタン
11世紀前半にセルジューク朝が成立しました。
セルジューク朝は西進してアナトリアまで侵攻し、トルコ人の西アジア進出を促しました。
12世紀
東トルキスタン
中国東北部からモンゴル東部を支配した遼は宋と金に敗れて滅亡します。
このとき、遼の皇族である耶律大石が西進し、カラハン朝を破って西遼を建国します。
西トルキスタン
東トルキスタンに建国された西遼が西トルキスタンにも進出します。
また、アム川下流に成立したホラズム朝がセルジューク朝からイラン高原を奪うなど勢力を拡大すると西トルキスタンでの交易により繁栄します。
13世紀
東トルキスタン
モンゴル高原西部を支配していたナイマンの王族たちがモンゴルのチンギスに敗れたことをきっかけに西進します。
そして、彼らは西遼を乗っとりますが西方に進出してきたモンゴル帝国に滅ぼされます。
その後、モンゴルはこの地にチャガタイ=ハン国を建国して支配します。
西トルキスタン
モンゴル帝国がホラズム朝を滅ぼし、東トルキスタンと同様にチャガタイ=ハン国がこの地を支配します。
14世紀
東トルキスタン
チャガタイ=ハン国が東西に分裂し、東チャガタイ=ハン国がこの地を支配しました。
西トルキスタン
チャガタイ=ハン国が東西に分裂して成立した西チャガタイ=ハン国からティムール朝が自立し、西トルキスタンを支配します。
15世紀
東トルキスタン
引き続き東チャガタイ=ハン国が支配します。
西トルキスタン
14世紀末から15世紀初めにかけて、ティムール朝が西アジアに進出します。
そして、アンカラの戦いではオスマン帝国を破りました。
また、ティムール朝がイランを支配したことによりイラン=イスラーム文化の影響を受けて西トルキスタンにトルコ=イスラーム文化が成立し、ティムール朝はこれを保護しました。
16世紀
東トルキスタン
引き続き東チャガタイ=ハン国が支配します。
西トルキスタン
遊牧ウズベク(ウズベク人)が北方の草原地帯から南下し、ティムール朝を滅ぼします。
そしてブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国をを建国します。
ティムールの子孫・バーブルはアフガニスタン経由でインドへ逃れ、ムガル帝国を建国します。
17世紀
東トルキスタン
モンゴル高原西部の遊牧民族・オイラトの一部族であるジュンガルが台頭し、東トルキスタンを支配します。
西トルキスタン
ブハラ・ヒヴァ両ハン国に加え、コーカンド=ハン国が成立しました。
18世紀
東トルキスタン
女真族が建国した清の乾隆帝がジュンガルを滅ぼしました。
それ以降、東トルキスタンは清の藩部となり「新疆」と呼ばれるようになりました。
西トルキスタン
ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国による支配が続きました。
19世紀
東トルキスタン
ロシアが南下政策により進出し、ロシアと清が対立します。
東トルキスタンでイスラーム教徒が清に反乱を起こすと、それに乗じてロシアがイリに出兵し占領します。
これがイリ事件です。
その後イリ条約で国境を画定し、イリは清に返還されます。
これをきっかけに清は新疆を藩部ではなく直轄領としました。
西トルキスタン
東トルキスタンと同様に、ロシアが南下政策により進出します。
ブハラ・ヒヴァ両ハン国を保護国とし、コーカンド=ハン国を併合しました。
ここまでのまとめ
ここまでの内容をまとめます。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
8世紀、東西を唐が支配しイラン系のソグド人が交易に活躍し西部はソグディアナと呼ばれた。タラス河畔の戦いによりでアッバース朝が唐に勝利するとし西部のイスラーム化が進んだ。9世紀、トルコ系のウイグルがキルギスに敗れてこの地に進出するとしトルコ化が進んだ。西部ではイラン系のイスラーム王朝であるサーマーン朝が成立し、トルコ人のイスラーム化を進めた。10世紀、東部で初のトルコ系イスラーム王朝のカラハン朝が成立し、東西を支配してトルコ化をさらに進めてこの地はトルキスタンと呼ばれはじめた。11世紀、西部でセルジューク朝が成立し西アジアへ進出した。12世紀、宋と金に敗れて西進した遼が西遼を建国した。また、ホラズム朝が交易によりで繁栄した。13世紀には西遼を乗っとったナイマンやホラズム朝をモンゴル帝国が滅ぼし、チャガタイ=ハン国がこの地を支配し、14世紀に東西に分裂した。西部にはティムール朝が成立し、西方に進出してアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、イラン=イスラーム文化の影響を受けたトルコ=イスラーム文化を成立させた。16世紀、西部では遊牧ウズベクがティムール朝を滅ぼしてブハラ・ヒヴァ両ハン国を建国した。ティムールの子孫・バーブルはインドへ逃れ、ムガル帝国を建国した。17世紀、東部でジュンガルが台頭し、西部ではコーカンド=ハン国も成立した。18世紀、清の乾隆帝がジュンガルを滅ぼし、東部を藩部とし新疆と称させた。19世紀、ロシアが南下し東部ではイリ事件でロシアと清が対立、イリ条約で国境を画定し清は東部を直轄地とした。西部ではブハラ・ヒヴァ両ハン国がロシアの保護国となりコーカンド=ハン国は併合された。
697字です。
20行問題なので、97字減らす必要があります。
字数調整
8世紀、イラン系ソグド人が交易に活躍した。タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利しイスラーム化が進んだ。9世紀、トルコ系のウイグルがこの地に進出しトルコ化が進んだ。西部でイラン系のサーマーン朝が成立し、トルコ人のイスラーム化を進めた。10世紀、初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝が成立、トルコ化をさらに進めた。11世紀、セルジューク朝が成立し西アジアへ進出した。12世紀、宋と金に敗れて西進した遼が西遼を建国した。また、ホラズム朝が交易で繁栄した。13世紀には西遼を乗っとったナイマンやホラズム朝をモンゴル帝国が滅ぼし、チャガタイ=ハン国がこの地を支配し、14世紀に東西に分裂した。西部にはティムール朝が成立し、西方に進出しアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、イランの影響を受けたトルコ=イスラーム文化を成立させた。16世紀、遊牧ウズベクがティムール朝を滅ぼしブハラ・ヒヴァ両ハン国を建国した。ティムールの子孫・バーブルはインドへ逃れ、ムガル帝国を建国した。17世紀、東部でジュンガルが台頭し、西部ではコーカンド=ハン国も成立した。18世紀、清の乾隆帝がジュンガルを滅ぼし、東部を藩部とし新疆と称させた。19世紀、ロシアが南下し東部ではイリ事件でロシアと清が対立、イリ条約で国境を画定し清は東部を直轄地とした。西部ではブハラ・ヒヴァ両ハン国がロシアの保護国となりコーカンド=ハン国は併合された。
597字です。
「ソグディアナ」「トルキスタン」という名称への言及を泣く泣く削りました。
また、設問に「東西の違いに注目して」などの指示がなかったので「東部で」「西部で」という表現をいくつか削りました。
削る過程がとにかく大変でした。
改めて、この問題の字数のタイトさを実感しました。
解答例・まとめ
今回の解答例は
8世紀、イラン系ソグド人が交易に活躍した。タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利しイスラーム化が進んだ。9世紀、トルコ系のウイグルがこの地に進出しトルコ化が進んだ。西部でイラン系のサーマーン朝が成立し、トルコ人のイスラーム化を進めた。10世紀、初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝が成立、トルコ化をさらに進めた。11世紀、セルジューク朝が成立し西アジアへ進出した。12世紀、宋と金に敗れて西進した遼が西遼を建国した。また、ホラズム朝が交易で繁栄した。13世紀には西遼を乗っとったナイマンやホラズム朝をモンゴル帝国が滅ぼし、チャガタイ=ハン国がこの地を支配し、14世紀に東西に分裂した。西部にはティムール朝が成立し、西方に進出しアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、イランの影響を受けたトルコ=イスラーム文化を成立させた。16世紀、遊牧ウズベクがティムール朝を滅ぼしブハラ・ヒヴァ両ハン国を建国した。ティムールの子孫・バーブルはインドへ逃れ、ムガル帝国を建国した。17世紀、東部でジュンガルが台頭し、西部ではコーカンド=ハン国も成立した。18世紀、清の乾隆帝がジュンガルを滅ぼし、東部を藩部とし新疆と称させた。19世紀、ロシアが南下し東部ではイリ事件でロシアと清が対立、イリ条約で国境を画定し清は東部を直轄地とした。西部ではブハラ・ヒヴァ両ハン国がロシアの保護国となりコーカンド=ハン国は併合された。
東大世界史2022世界史解説記事リンク一覧
・第1問 この記事です。
・第2問問1(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-a/
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・第2問問2(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-a/
・第2問問2(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-b/
・第2問問3(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-3-b/