「変法運動の主張や経緯を知りたい」
「清の末期に行われた改革の流れや詳細を確認しておきたい」
「洋務運動、変法運動、光緒新政のきっかけとなった出来事を知りたい」
東大は、世界史2022第2問・問3(b)で変法運動の主張と経緯を2行(≒60字)以内で説明させる問題を出題しました。
19世紀後半以降、清朝は何度か近代化を実現するために改革を試みました。
しかしいずれも十分な成果があがらず、清朝は1912年に滅亡します。
清朝が取り組んだ改革の内容や結果は、同時期に近代化に成功した大日本帝国の取り組みと対比されるなどして世界史の記述・論述問題に出題されることの多いテーマです。
この記事では、以下の改革運動についてきっかけや内容、そして失敗した原因などを解説します。
- 洋務運動
- 変法運動
- 光緒新政
単なる用語の暗記ではなく、それぞれの改革について理解できる記事になっておりますので最後までご覧ください。
講義
洋務運動(19世紀中頃)
きっかけ
アヘン戦争とアロー戦争での敗北により清朝は改革の必要性を認識しました。
また、曽国藩・李鴻章・左宗棠は太平天国の乱を鎮圧する際、共闘したウォード・ゴードンらが指揮した常勝軍の近代兵器の威力を目の当たりにして近代兵器導入による軍備増強の必要性を強く感じていました。
内容
洋務運動は「近代西洋の技術導入」を中心とする運動でした。
技術以外のもの、つまり政治体制や思想・学問については変えようとしませんでした。
これを「中体西用」(中国の体制のままで西欧の技術を用いる)と表現します。
きっかけが軍事的敗北なので、洋務運動では軍備増強や軍需工場の建設が最も重視されました。
これを推し進めたのは漢人官僚の曽国藩・李鴻章・左宗棠でした。
結果
皇帝専制体制という政治体制や儒教的価値観を維持したため、洋務運動は政治・社会の改革にはつながらない中途半端な改革にとどまりました。
また、軍備増強の観点からも清仏戦争や日清戦争での敗北により洋務運動の限界が明らかになりました。
変法運動(19世紀末)
きっかけ
上述の通り、19世紀末に清仏戦争と日清戦争に敗北したことで洋務運動の限界が明らかになり国家の存亡をめぐる危機意識が高まりました。
主張
変法運動の中核となる主張は
日本の明治維新を手本として立憲君主政を目指す
というものでした。
この主張が生まれたのは、以下のような理由です。
- 洋務運動の限界が明らかになった⇒政治体制や思想・学問についても変革の必要がある
- 日清戦争に敗北した⇒日本を手本として政治改革をする必要がある
また、思想・学問についても変革の必要性を感じたので科挙の改革や学校制度の改革なども行われました。
このように、洋務運動とは異なり政治体制や思想・学問の面でも国のあり方を変えようとする姿勢を「変法自強」
【法(ルール)そのものを変えて自ら(清)を強くする】
といいます。
経緯
変法運動を推進したのは、光緒帝により登用された康有為、梁啓超、譚嗣同らです。
彼らは公羊学派という、孔子を政治改革者とみなす学派の立場から変法運動を推進しました。
戊戌政変
皇帝専制体制の維持を求める保守派は立憲君主政を目指す変法運動に反発します。
そして、西太后が光緒帝を幽閉して変法運動を挫折させます。
これが、戊戌の政変です。
その後、西太后は改革派を弾圧しました。
譚嗣同は処刑され康有為・梁啓超は日本に亡命しました。
光緒新政(20世紀初め)
きっかけ
戊戌の政変後、清朝で政治の実権を握っていた西太后が
- 義和団事件で義和団を支援したが列強の8カ国共同出兵に敗北し、北京議定書で巨額の賠償金や外国軍の北京駐屯権を認めることとなった
- 日露戦争の結果をみて、政治体制などの近代化を推進することの重要性や必要性を強く感じた
これらをきっかけとして改革に踏み切ることになりました。
内容
西太后らは、光緒新政として以下のような内容の改革を実施します。
- 科挙の廃止
- 新軍の設置(西洋式の軍隊を編成)
- 憲法大綱を発表し、憲法の制定と国会の開設を約束する
結果
清朝は1913年に国会を開設することを約束しましたが、1912年に辛亥革命で宣統帝が袁世凱によって退位させられ滅亡します。
ここまでの内容のまとめ
ここまでの内容をまとめます。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
光緒帝の指示を受けた、孔子を政治改革者とみなす公羊学派の康有為らが西欧の技術のみを導入する洋務運動を批判し、日本の明治維新を範として皇帝専制から立憲君主政への変化を目指す、科挙を改革するなど政治や思想の改革を伴う変法自強を掲げた。保守派はこれに反発し、西太后が袁世凱と結び戊戌の政変で光緒帝を幽閉し変法運動を挫折させた。
160字です。
4行問題なので、40字ほど削る必要があります。
字数調整
光緒帝の指示を受けた、孔子を政治改革者とみなす公羊学派の康有為らが西欧の技術のみを導入する洋務運動を批判し、日本の明治維新を範として皇帝専制から立憲君主政への変化を目指す、科挙を改革するなど政治や思想の改革を伴う変法自強を掲げた。保守派はこれに反発し、西太后が袁世凱と結び戊戌の政変で光緒帝を幽閉し変法運動を挫折させた。
114字になりました。
設問が「主張と経緯を」と要求しているので、それらを最優先で残すことを意識しました。
解答例・まとめ
今回の解答例は
孔子を政治改革者とみなす公羊学派の康有為らが洋務運動を批判し、日本の明治維新を範として立憲君主政を目指す、科挙を改革するなど政治や思想の改革を伴う変法自強を掲げた。保守派はこれに反発し、西太后が戊戌の政変で変法運動を挫折させた。
とします。
東大世界史2022世界史解説記事リンク一覧
・第1問 https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-1
・第2問問1(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-a/
・第2問問1(c)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-c/
・第2問問2(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-a/
・第2問問2(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-b/
・第2問問3(b)この記事です。