「大憲章が作成された経緯を解説してほしい」
「大憲章の内容って何?」
「なぜイングランド国王のジョンが大陸に領土を保有していたのか知っておきたい」
東大は、世界史2022第2問・問2(a)で大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に4行(≒120字)以内で説明させる問題を出題しました。
大憲章の作成はイギリス政治史のみならず政治史全体における1つの大きなターニングポイントです。
大憲章において王権を制限したことが、「国家権力を制限するもの」である憲法の誕生につながっていくからです。
2022年に大憲章について問うた東大は、続く2023年の第1問で1770年前後から1920年前後にかけて世界各地で憲法が誕生していく歴史を記述させています。(解説記事へはこちらからリンクできます)
東大世界史における過去問研究の重要性を示すエピソードだと思います。
このサイトを東大世界史過去問研究にご活用ください。
さて、今回の記事では東大世界史9割の私が、以下のことを解説しています。
- 大憲章が作成された経緯
- 大憲章の内容
- ノルマン朝成立からプランタジネット朝・ジョン王までのイングランドとフランスの関係
大憲章のみならず、中世イングランド政治史の理解に役立ちますので是非最後までご覧ください。
講義
10世紀初め:ノルマンディー公国の成立
9世紀半ば~10世紀初めにフランスを支配した西フランク王国は王権の弱い封建国家でした。
10世紀初めにノルマン人のロロがフランスに進出し、フランス北西部のセーヌ川河口域の支配を西フランク王国から認められてノルマンディー公国を建国しました。
11世紀半ば~12世紀半ば:ノルマン朝の成立と断絶
当時のイングランドを支配したアングロ=サクソン王家の王が後継者を指名せずに死去すると王位継承をめぐる争いが起きました。
その死去した王の従兄弟であったノルマンディー公国の君主・ノルマンディー公ウィリアム(フランス語表記ではノルマンディー公ギョーム)は、血縁関係を根拠にアングロ=サクソン王家の王位継承権を主張してイングランドに侵入しました。
ノルマンディー公ウィリアムはヘースティングズの戦いでイングランド軍を撃破してイングランド王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を創始します。
この出来事をノルマン=コンクェストと呼びます。
その後、ウィリアム1世は反抗する貴族の土地を没収していき強力な王権を確立します。
(ここでいう「強力」は、フランスなど大陸の封建国家の王権よりは強力であるという意味です。)
ここからは当時の英仏関係を解説するための「余談」です。
既に理解している方はとばして次の項に進んでください。
イングランド王であるウィリアム1世は、
- イングランドでは最高権力者・国王ウィリアム1世
- フランスでは国王の臣下である北西部の領主・ノルマンディー公
という立場になります。
当時のフランスに成立していたカペー朝は王権が非常に弱い封建国家でしたので、パリ周辺にしか影響力がありませんでした。
カペー朝はノルマン朝に対して「自分の臣下のくせに自分たちよりも広い領地や強大な権力を持ちやがって!生意気な。許せん。」などと思うわけです。
一方で、ノルマン朝はカペー朝に対して「フランス国内では臣下だが、それはあくまで形式的なものだ。王家として持つ権力や経済力はうちの方が上だ。」といったような意識を持ちます。
こうした複雑な英仏関係が後の歴史に影響を与えていきます。
以上で「余談」は終了です。
次の項目に進みましょう。
12世紀半ば:プランタジネット朝の成立経緯
ノルマン朝が断絶すると、王位継承をめぐる争いでイングランド国内は混乱しました。
そして、ノルマン朝最後の国王の孫であるフランス・アンジュー地方の領主であるアンジュー伯アンリがイングランド国王・ヘンリ2世として即位することになりました。
これにより、プランタジネット朝が成立します。
12世紀半ば~12世紀末:ヘンリ2世
ヘンリ2世はノルマン朝の領土を相続しましたので、イングランドに加えてフランスのノルマンディー公国を支配することになりました。
さらに、イングランド王になる前から領有しているアンジュー地方や妻の実家から相続したアキテーヌをあわせて、
イングランド+フランスの西半部を領有することになりました。
カペー朝との差はさらに拡大し、両者の関係は悪化することになります。
12世紀末:リチャード1世
次に即位したヘンリ2世の息子・リチャード1世は第三回十字軍に参加し、アイユーブ朝のサラディンと戦いました。
聖地を奪回することは出来ませんでしたが、勇敢な戦いぶりから「獅子心王」と呼ばれました。
この第三回十字軍にはフランス王フィリップ2世も参加していましたが、フランス王は上述の通りイングランド国王を敵対視していますので早々に帰国し、リチャード1世の留守を狙ってノルマンディーを攻撃しました。
リチャード1世はフィリップ2世との戦いで戦死してしまいます。
12世紀末~13世紀初め:ジョン王
リチャード1世の死後、その弟であるジョンが即位します。
ジョンはフランス王フィリップ2世との抗争に敗れ、大陸にある領土の大半を失います。
その後、大陸領土回復の戦費を調達するために貴族に重税を課しますが貴族はこれに反抗し、新たな課税には貴族や聖職者の承認が必要であるということを明文化した大憲章をジョン王に認めさせました。
こうして、「王権が法によって制限される(支配される)」という状態が実現し、のちのイギリスにおける法の支配と議会政治を原則とする立憲君主政の基礎が築かれることとなります。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
イングランド王ジョンがフランス王フィリップ2世との抗争に敗れて大陸にある領土の大半を失った。その後、ジョンは大陸の領土回復のための戦費を調達するために貴族に重税を課した。貴族たちがこれに反抗し、王権を制限するべく新たな課税には貴族や聖職者の承認が必要であることを明文化した大憲章をジョン王に認めさせた。
151字です。
4行問題なので30字ほど削る必要があります。
設問条件に「課税をめぐる事柄を中心に」とありますので課税とは関係ない箇所をなるべく削ることにします。
字数調整
イングランド王ジョンがフランス仏王フィリップ2世との抗争に敗れて大陸にある領土の大半を失った。その後、ジョンは大陸の領土回復を図り、そのための戦費を調達するためにで貴族に重税を課した。貴族たちがこれに反抗し、王権を制限するべく新たな課税には貴族や聖職者の承認が必要であることを明文化した大憲章をジョン王に認めさせた。
118字です。
4行なのでギリギリおさまりました。
解答例・まとめ
今回の解答例は、
イングランド王ジョンが仏王フィリップ2世との抗争に敗れて失った大陸の領土回復を図り、そのための戦費調達で貴族に重税を課した。貴族が反抗し、王権を制限するべく新たな課税には貴族や聖職者の承認が必要と明文化した大憲章をジョン王に認めさせた。
とします。
東大世界史2022世界史解説記事リンク一覧
・第1問 https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-1
・第2問問1(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-a/
・第2問問1(c)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-c/
・第2問問2(a)この記事です。
・第2問問2(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-b/
・第2問問3(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-3-b/