「白色革命の内容が知りたい」
「なぜ白色革命はホメイニらに批判されたの?」
「白色革命を推進したイランのパフレヴィー朝について知りたい」
東大は、世界史2022第2問・問1(c)で白色革命について2行(≒60字)以内で説明させる問題を出題しました。
現代史であり、かついわゆる「主要国」の歴史ではないため解答に窮する受験生が多かったのではないでしょうか。
そういった問題こそ、きちんと記述できれば他の受験生との差をつけることができます。
この記事では、東大世界史9割の私が、以下の内容を詳しく解説します。
- 白色革命の内容
- 白色革命が批判された理由
- パフレヴィー朝の成立から崩壊までの歴史
初学者にもわかりやすく解説しますので、是非最後までお読みください。
講義
1921年:パフレヴィー朝の成立
パフレヴィー朝はレザー=ハーンがクーデタに成功し、カージャール朝から政権を奪取して成立しました。
立憲君主制でしたが、国王が独裁的な権力を持っていました。
政治や軍隊の近代化つまり西欧化を推進したためイスラーム法学者たちの政治的な発言権は低下しました。
こうした、宗教勢力の影響力を低下させる動きを「世俗化」といいます。
これは様々な時代の様々な国で登場することばですので、必ず覚えておきましょう。
その一方でイスラーム以前のイラン固有の文化を復興させることに注力し、イラン人のナショナリズムを鼓舞しました。
具体的には、以下の2つを実施しました。
- イランの伝統に則り、王の称号に「シャー」を使用した(これはカージャール朝も同様)
- 国号を「ペルシア」から「イラン」に変更した
経済面では、産油国となるも石油利権はイギリスが有しており、イギリス政府が出資して設立したアングロ・イラニアン石油会社がイランの石油を採掘・精製・販売を独占して莫大な利益を得ていました。
第二次世界大戦中
レザー=ハーンはイギリスに対抗する思惑からドイツに接近します。
イギリスとソ連はこの動きを警戒し、レザー=ハーンを退位させて息子のパフレヴィー2世が新たに即位します。
パフレヴィー2世は英ソの圧力をうけながら、第二次世界大戦における中立を宣言します。
独ソ戦後、イランは英米がソ連に軍事支援を提供するためのルートとなりました。
そこで、1943年にはイランの首都・テヘランで米英ソの三首脳によるテヘラン会談が行われました。
ここでは、ソ連の対日参戦などで合意しました。
第二次世界大戦後:民族主義の高揚
イギリスによるイラン国内の石油利権の支配に批判が強まると、モサデグ首相はイギリス系アングロ=イラニアン石油会社を接収して石油国有化を実現します。
これにはイギリスとアメリカが強く反発します。
イギリスは自国の石油利権が奪われたことが原因の反発です。
アメリカは「国家が民間企業の資産を没収し、国営企業として経営を行う」というこの石油国営化を反資本主義、つまり社会主義的な行動として反発します。
そして、英米主導で国際石油資本(欧米が出資する石油会社7社)がイラン産の石油をボイコットするとイラン産の石油が輸出できなくなり、イラン経済は低迷してしまいます。
1953年:親欧米路線への転換
モサデグによる石油国有化に反発したイギリスやアメリカは国王パフレヴィー2世にクーデタを起こさせ、モサデグを失脚させます。
こうして、国王による専制政治が復活します。
英米の支援で成立した政権ですので、親欧米路線をとります。
1955年にはアメリカが指導する反共軍事同盟である中東条約機構(METO)に参加し、イラク脱退後に成立した中央条約機構(CENTO)にも参加します。
1963年:白色革命
親米路線をさらに強化したいパフレヴィー2世は、白色革命という改革を実行し、近代化を推進します。
ここでの近代化とは、具体的には以下のような内容です。
①経済の近代化:工業化の実現による経済成長の実現
②社会の近代化その1:農地改革(地主の土地を没収して小作農に配ること。シーア派宗教施設が所有する土地も没収された)
③社会の近代化その2:女性参政権の実施(伝統的なイスラームの教えに反するもの)
こうした急速な近代化政策は世俗化を進めるものでしたので、地位の低下したイラン国内の宗教界が大きく反発しました。
また、経済成長の恩恵を主に英米と癒着した国王とその側近が受けたためイラン国内で貧富の差が拡大しました。
こうした事情から白色革命には多くの反対派がいましたが、パフレヴィー2世はこれを厳しく抑圧しました。
開発独裁
イランの白色革命は、開発独裁の例の1つとされます。
開発独裁とは、経済を効率よく発展させるために実施された独裁政治のことです。
経済成長を何よりも優先するため、国民の自由が抑圧される強権的な政治でした。
その多くは親米政権でした。
経済成長を重視するということは資本主義との相性が良く、共産主義とは相容れません。
よって親米政権となったわけです。
開発独裁の国のなかでも、韓国とシンガポールはその高い経済成長率から1980年代に新興工業経済地域(NIEs)として世界中から注目されました。
今回の記事のメインテーマである白色革命については、以下のようにまとめておきます。
1973年:石油危機
1973年には第四次中東戦争により発生した石油危機が原因で石油の価格が高騰します。
これによりイランの石油収入が増加し、イラン経済は大きく成長します。
すると、イラン国内での貧富の差がさらに拡大し、国民の不満が蓄積することとなります。
また、経済成長に伴い西欧化と世俗化がさらに進むことにより、イラン人としてのアイデンティティ喪失を懸念する声も高まっていきました。
こうした白色革命への反対派に対し、パフレヴィー2世は引き続き過酷な統制を行います。
1979年:パフレヴィー朝の崩壊
- 貧富の差の拡大
- 西欧化と世俗化によりアイデンティティ喪失への懸念
- 反対派への過酷な統制
こうしたパフレヴィー2世の専制に対する批判の声が高まり国民の不満が蓄積すると、
宗教指導者ホメイニが多数の宗教勢力や民族主義者らを率いてイラン革命をおこします。
国王パフレヴィー2世が亡命し、パフレヴィー朝は崩壊します。
こうしてイラン=イスラーム共和国が成立し、宗教指導者が政治の実権を握る国家が成立します。
イラン=イスラーム共和国はパフレヴィー朝への批判から生まれた国家ですので、
- 近代化政策の否定
- 欧米諸国との対立路線(アメリカともソ連とも対立する)
- イスラーム原理主義(イスラーム法による秩序を重んじる思想)
といったスタンスをとります。
そして、再び石油を国有化して世界的な原油不足である第二次石油危機を引き起こします。
答案作成
字数を気にせず書いてみる
親米のパフレヴィー2世が開発独裁による近代化を図った白色革命。世俗化や欧米化を進め、農地改革や女性参政権を実現した。
58字です。
2行問題なので、ちょうどいい字数ですね。
なお、体言止めを用いています。
世界史の記述・論述問題に体言止めを用いることには賛否ありますが、私はありだと考えています。
体言止めに違和感のある人向けに、体言止めを用いない場合の解答例も用意しました。
こちらも参考にしてください。
親米のパフレヴィー2世が開発独裁体制をとり実施した白色革命を指し、世俗化や欧米化の推進、農地改革や女性参政権を実現した。
解答例・まとめ
今回の解答例は
親米のパフレヴィー2世が開発独裁による近代化を図った白色革命。世俗化や欧米化を進め、農地改革や女性参政権を実現した。
とします。
東大世界史2022世界史解説記事リンク一覧
・第1問 https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-1
・第2問問1(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-1-a/
・第2問問1(c)この記事です。
・第2問問2(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-a/
・第2問問2(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-2-b/
・第2問問3(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2022-2-3-b/