「マムルークに関して一問一答レベル以上の知識がほしい」
「マムルークが果たした役割を知りたい」
「マムルークがアッバース朝の軍事力の中核を担うこととなった背景を知りたい」
東京大学は2023年度入試において、世界史第2問の問2(b)で
マムルークの特徴とマムルークがアッバース朝で果たした役割について2行(≒60字)以内で記述させる問題を出題しました。
一問一答ではおなじみの知識ですが、60字で説明するのは難しいですよね。
この記事では、以下の内容について解説します。
- マムルークの特徴
- マムルークが果たした役割
- マムルークがアッバース朝で軍事の中核を担うこととなった背景
マムルークについて知識を深めたい方は是非最後までご覧ください!
講義
マムルークの特徴
マムルークとは、非イスラーム世界からイスラーム圏に連れてこられた軍人のうちイスラーム教に改宗させられて軍人奴隷となった人々のことです。
なかでも、トルコ系の人々は遊牧民であったため騎馬戦に長けておりマムルークとなるケースが多かったようです。
そのため、便宜上「マムルーク=トルコ人」とされることも多いようです。
トルコ人
トルコ人は、もとは草原の道周辺で活動していた遊牧系の騎馬民族です。
その後、
・6世紀:トルコ系の突厥がモンゴル高原から中央アジアまでを支配
・8世紀:トルコ系のウイグルがモンゴル高原を支配
・8世紀:ウマイヤ朝がトルコ人が居住する中央アジアに進出する。これにより、トルコ人とイスラーム教徒の接点が生まれる。
・その後:イスラーム教を受容しはじめ、その後西アジアに進出していく
といった流れで歴史の表舞台に登場します。
その後のマムルーク朝やオスマン帝国のインパクトが強いので「トルコ人=イスラーム教徒」「トルコ人=現在トルコ共和国がある地域にいる人々」という知識のみを持ちがちですが、それ以前の歴史のほうが「トルコ人の歴史」としては出題頻度が高いです。注意しておきましょう。
マムルークがアッバース朝で果たした役割
アッバース朝において、マムルークはカリフの親衛隊を務め、軍事力の中核を担いました。
親衛隊とは国王などの身の回りの警護を行う部隊のことです。
したがって、国王の親衛隊を務めれば一緒にいる時間が長くなるので話をする機会も多くなります。
そうすると親衛隊のなかには国王に気に入られて自分の要望を叶えてもらえる者も登場します。
マムルークもその例外ではなかったようです。
アッバース朝でも、カリフの親衛隊であるマムルークが次第に政治的な発言力を持ちはじめます。
マムルークがアッバース朝で重用された背景
イスラーム帝国
アッバース朝の登場以前にイスラーム世界を支配していたウマイヤ朝はアラブ人に免税特権などを認めていたため「アラブ帝国」と呼ばれます。
これに対し、8世紀中頃に成立したアッバース朝はアラブ人を含めた全てのムスリムから徴税を行い、全ムスリムに平等な社会進出の機会を与えたため「イスラーム帝国」と呼ばれます。(なお、ここで言う「社会進出」とは主に官僚、政府高官、軍人になることを指します。)
主にトルコ人であるマムルークが軍事力の中核として重用された背景には、アッバース朝のこうした支配体制があります。
アッバース朝衰退期以降のマムルーク
アッバース朝の衰退期
9世紀になると地方に分離政権が成立してアッバース朝の衰退が始まります。その中には、トルコ系軍人がエジプトに建てたトゥールーン朝もありました。
10世紀には「3カリフ時代」という、アッバース朝・ファーティマ朝・後ウマイヤ朝のそれぞれにカリフが存在する時代が始まります。3人もカリフがいるので、カリフの権威は低下することになります。
マムルークはアッバース朝だけでなく、これらの王朝においても軍事の中核を担うことが多かったです。
こうしたことから、アッバース朝衰退期においてイスラーム世界におけるマムルークは
各地で台頭し、自立し、政治に介入することでカリフの権威を低下させる
という役割を果たすことになります。
サーマーン朝
9世紀終盤~10世紀にかけて中央アジアを支配したイラン人の王朝です。
中央アジア初のイスラーム王朝です。
多くのトルコ人を奴隷市場経由でマムルークとして西アジアに送りました。
イスラーム世界の各地でマムルークが台頭するきっかけをつくった王朝と言えますね。
ガズナ朝
ガズナ朝は10世紀後半にアフガニスタンに成立した王朝です。
サーマーン朝のマムルークが建てたイスラーム王朝です。
軍事の中核を担うのは、当然マムルークです。
セルジューク朝
セルジューク朝は、11世紀前半に西アジアで成立したトルコ人のイスラーム王朝です。
トルコ人の国なので、軍事の中核を担うのはもちろんマムルークです。
セルジューク朝は小アジアに進出して現在のトルコ共和国がある地のトルコ化を進めます。
アイユーブ朝
アイユーブ朝は、12世紀後半にクルド人のサラディンがカイロを都として建てた王朝です。
ここでもマムルークは軍事の中核を担いますが、トルコ人が建国した国ではないので冷遇されることもありました。
マムルーク朝
そこで、13世紀にマムルークたちはアイユーブ朝をクーデタで滅ぼしてマムルーク朝を成立させます。
モンゴル帝国のフラグをバイバルスの活躍で撃退するなど軍事力の強い国でした。
また、首都カイロが東西交易の拠点として繁栄するなど経済力もある国でした。
マムルーク朝滅亡後
そんなマムルーク朝でしたが、16世紀にオスマン帝国に滅ぼされます。
オスマン帝国の支配下においても、エジプトでの軍事はマムルークが担います。
しかし、マムルークたちは18世紀末にナポレオンのエジプト遠征軍に敗れて弱体化しました。
そして19世紀にオスマン帝国のエジプト総督だったムハンマド=アリーが建てたムハンマド=アリー朝はエジプトの近代化を目指してマムルークを軍から一掃しました。
ここまでのまとめ
答案作成
字数を気にせず書いてみる
マムルークはトルコ人が多く、もとは遊牧民だったため騎馬技術に長けていた。アッバース朝では軍人奴隷としてカリフの親衛隊を担ったが後に勢力を拡大させて政治にも介入しカリフの権威が低下する原因をつくった。
99文字です。
40字ほど削る必要があります。
問われていることの答えとして必要不可欠とはいえない箇所を削っていきましょう。
字数調整
マムルークはトルコ人が多く、もとは遊牧民だったため騎馬技術に長けていた。アッバース朝では軍人奴隷としてカリフの親衛隊を担ったが後に勢力を拡大させて政治にも介入しカリフの権威がを低下する原因をつくっさせた。
58字です。
「トルコ」「騎馬」「軍人奴隷」「カリフの親衛隊」「カリフの権威が低下」を絶対に外せないキーワードと考え、それ以外の言葉のうち削っても文章は成り立つと思われる箇所を削りました。
解答例・この記事のまとめ
今回の解答例は
トルコ人が多く、騎馬技術に長けていた。軍人奴隷として王の親衛隊を担ったが後に政治にも介入しカリフの権威を低下させた。
とします。
東大世界史2023世界史解説記事リンク一覧
・第1問 https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-1/
・第2問問1(b)https://ronjyutu-taisaku.com/2023-2-1-b/
・第2問問2(b)この記事です。
・第2問問2(c)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-2-c/
・第2問問3(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-3-%ef%bd%81/
・第2問問3(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-3-b/