「『湖広熟すれば天下足る』の意味を知りたい!」
「『蘇湖熟すれば天下足る』と『湖広熟すれば天下足る』との違いを理解したい!」
「中国・明代の農業の特徴を知りたい!」
東京大学は2023年度入試において、世界史第2問の問1(b)で
長江流域の発展によって生まれた「湖広熟すれば天下足る」ということわざの背景にある経済の発展と変化を3行(≒90字)以内で記述させる問題を出題しました。
似たようなことわざに「蘇湖熟すれば天下足る」があるので混乱しやすいですよね
そこで、本記事では東大入試で世界史9割をとった東大卒塾講師の私が、「湖広熟すれば天下足る」について以下の内容を解説します。
- 「湖広熟すれば天下足る」の意味
- 背景にある経済の発展と変化
- 「蘇湖熟すれば天下足る」との違い
まだ通史を勉強中の初学者にもわかるよう丁寧に解説していくので、ぜひ最後までご覧ください!
講義
「蘇湖熟すれば天下足る」の意味
「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」とは、宋代以降、長江下流域が農業生産・経済の中心となったことを示します。
なぜそうなるのか、このフレーズを分解して確認しましょう。
蘇湖・江浙
蘇湖・江浙ともに長江下流域を指す言葉です。
「江浙」とは、長江下流域にある「江」蘇省と「浙」江省のことです。
「蘇湖」とは、江蘇省の中心都市「蘇」州と浙江省の中心都市「湖」州のことです。
省の頭文字をとるか中心都市の頭文字をとるかの違いですね。
熟すれば
「熟す」とは「果実などが十分に実る」という意味です。
ここでは、農業による収穫量が十分であることを指すと考えます。
天下足る
「天下」は「全国」「世間」といった意味です。「みんな」と考えてもよいでしょう。
「足る」は「十分である」「満足する」という意味です。
全部つなげる
以上を全部つなげて考えると、「蘇湖熟すれば天下足る」は「長江下流域で十分な量の稲や麦が収穫できさえすれば、それで国民全員が満足できる量の稲・麦を確保することができる」といった意味になります。
「蘇湖熟すれば天下足る」の背景
ではなぜ、長江下流域が農業生産の中心になったのでしょうか。
それは、稲作技術の革新等によって生産力が向上したからです。
それをもたらした要因をみていきましょう。
占城稲の導入
占城稲とは、占城(チャンパー、現在のベトナム中部)が原産の稲です。
中国より南、すなわち中国より暑い地域原産の植物であるため日照りに強く早稲(通常より早い時期に収穫できる稲)であるというメリットがあるため長江下流域の農業生産力向上に貢献しました。
なお、チャンパーとは2~17世紀にベトナム中部にあった国の名前です。
中国人たちは、宋代以前は林邑or環王、宋代以降は占城と漢字で表記しました。
二期作・二毛作
占城稲が早稲であったため、稲を収穫した後の時期にも農作物の栽培が可能になりました。
もう一度田植えをして稲刈りをすることを二期作、麦など他の作物を栽培することを二毛作といいます。
干拓による農地の拡大
湖や川の近くにある低湿地を堤防で囲んで干拓することで新たに農地を得ることに成功しました。
「囲んで」得た農地なので「囲田」と呼ばれています。
また、特に川や池の近くの低湿地を囲んだものを「圩田」、湖の近くの低湿地を「湖田」と区別して呼称する場合がありますがその違いを意識する必要はありません。
「湖広熟すれば天下足る」の意味
「湖広熟すれば天下足る」は、「蘇湖熟すれば天下足る」の「蘇湖」が「湖広」に入れ替わった言葉です。
よって、宋代以来の穀倉地帯であった長江下流域に代わって中流域(湖広地方)が米の主要産地となったことを指します。
なお、「米の主要産地となった」は「稲作の中心となった」「穀倉地帯となった」などと表現することもできます。
「湖広」とは、長江中流域にある湖広地方のことです。
「湖広熟すれば天下足る」の背景
明代後期(16世紀頃)、長江下流域で綿織物工業・絹織物工業が発達して綿花・桑などの商品作物栽培が盛んになります。
その影響で長江下流域での米・麦といった穀物の生産量が減少します。
それをカバーするために長江中流域で米・麦の生産量が増加して「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになりました。
なお、この頃の工業は「工業」といっても機械を使いません。
手作業で行います。
機械を使うようになるのは産業革命以降のことです。
産業革命以降の機械を用いた工業と区別するために、それ以前の工業を「手工業」と表記することがあります。
覚えておきましょう。
綿織物工業
綿織物工業の発達と綿花の栽培には密接な関係があります。
なぜならば、綿織物工業とは
綿花⇒⇒綿⇒綿糸⇒綿布(綿織物)
という加工をする工業だからです。
綿花とは、綿という植物の花ではなく綿の花が咲いた後になる実のことです。
綿花を収穫し、種を外したものを綿と呼びます。
さらにその綿を紡績すると綿糸になります。
そして、綿糸の縦糸と横糸を組み合わせて織ると綿布(綿織物)ができます。
原料である綿花がないと綿織物工業はできないといえますね。
絹織物工業
絹織物工業の発達と桑の栽培には密接な関係があります。
絹織物工業とは、
蚕の繭⇒生糸⇒絹織物
という加工をする工業だからです。
蚕(かいこ)とは、桑の葉を食べて育つガの一種です。
桑を栽培し、餌として与えることで蚕を育てることを養蚕(ようさん)といいます。
蚕の幼虫は成長すると蛹(さなぎ)に変態します。その際に繭をつくります。
この繭を鍋で煮るなど様々な加工をして糸にしたものを生糸と呼びます。
さらに、この生糸を織ったものが絹織物です。
したがって、桑の葉がないと絹織物工業は成立しません。
対外交易の活発化
16世紀になると明にもヨーロッパ人が来航するようになり、交易が活発化します。
中国はスペインなどへ絹・茶・陶磁器などを輸出します。
こうした輸出品としての需要の高まりが明代の工業発展の原因の1つとなっています。
なお、こうした交易の活発化は明へ
- 大量の日本銀・メキシコ銀の流入
- 一条鞭法の実施
といった変化をもたらすとともに明を「銀を中心とした経済の一体化」に巻き込んでいきます。
これは東大が2004年に第1問で出題しています。
いつかしっかり解説しますので、お楽しみに!
蘇湖・湖広の大まかな場所について
白地図に書き込む形で、蘇湖・湖広の大まかな場所を示します。
長江の場所とあわせて確認しておいてください。
白地図はd-maps.comさん(https://d-maps.com/carte.php?num_car=162&lang=ja)からお借りしました。
ここまでのまとめ
ここまでの内容をまとめました。
答案作成
講義の内容を踏まえて書いてみましょう。
字数を気にせず書いてみる
明代の中国では、それまで穀倉地帯の中心であった長江下流域で綿織物や絹織物の手工業の発達にともなって綿花や桑などの商品作物の栽培が盛んとなった。これにより穀倉地帯の中心が長江下流域の江浙地方から長江中流域の湖広地方へ移った。
111字です。
3行問題ですので、20字ほど削る必要があります。
字数調整
明代の中国では、それまで穀倉地帯の中心であった長江下流域で綿織物や絹織物の手工業の発達にともなよって綿花や桑などの商品作物の栽培が盛んとなった。これにより穀倉地帯の中心が長江下流域の江浙地方から長江中流域の湖広地方へ移った。
87文字です。
ちょうどよい文字数となりましたね。
こちらを今回の解答例としましょう。
解答例・この記事のまとめ
今回の解答例は
明代の中国では、穀倉地帯であった長江下流域で綿織物や絹織物の手工業の発達によって綿花や桑などの商品作物の栽培が盛んとなった。これにより穀倉地帯が長江中流域の湖広地方へ移った。
とします。
東大世界史2023世界史解説記事リンク一覧
・第1問 https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-1/
・第2問問1(b)この記事です。
・第2問問2(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-2-b/
・第2問問2(c)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-2-c/
・第2問問3(a)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-3-%ef%bd%81/
・第2問問3(b)https://ronjyutu-taisaku.com/todai-w-2023-2-3-b/