この記事は2025年2月27日に執筆しています。
つい先日実施された「東京大学 世界史2025」の問題を入手しましたので、受験生向けに速報解説をお届けします。 本記事では設問ごとに解答の方向性を詳しく解説し、必要な知識を整理したうえで解答例を提示します。
ぜひ参考にしてください。
第1問
昨年同様、第1問は大論述を2つの小問に分割した構成となっており、2つの小問には強い関連性があります。
そのため、実質的には1問の大論述を二分しているといえます。
それぞれの小問に設問条件と4つの指定語句が与えられているため、論述の方向性を把握しやすい問題でした。
以下、設問ごとにポイントを整理して解答例も提示しますのでぜひ参考にしてください。
問(1)
設問条件から構成を考える
この設問では、1910年代から1920年代にかけて生じた下記4つの大陸国家の変動を12行で論じるよう求められています。
- オーストリア=ハンガリー帝国の解体
- オスマン帝国の解体
- ロシア帝国の滅亡とソ連の成立
- 清の滅亡と中華民国の成立
さらに、支配領域や民族構成の大きな変化の有無によって以下の2つの類型に分けて書くよう指定されています。
- 大きな変化があった:オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国
- 大きな変化がなかった:ロシア帝国、清
この問題では、いずれの国家でも「後継国家の成立」や「支配領域・民族構成の変化」がテーマとなるため、それ以外の事項はどれほど重要であっても論述に含めてはなりません。
(例えば、ロシア帝国からソ連に移行する際の社会主義経済の導入は重要事項ですがこの問題では書きません)。
指定語句から書くべき内容を考える
国民統合
「国民統合」は、さまざまな民族を一つのアイデンティティにまとめあげる行為を指します。
オーストリアやトルコ(オスマン帝国)が統合に失敗して解体したのに対しソ連や中華民国は多民族を抱えながらも何とか維持にこぎつけた、という対比を書くとよいでしょう。
チベット
辛亥革命後に成立した中華民国ではチベットが一時独立を宣言しましたが、結局は中華民国政府に認められず「中国の宗主権を前提とした自治」にとどまりました。
国家としての独立には至らなかった点が重要です。
ドイツ人
オーストリアは第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約によって領土・人口が大幅に削減され、ほぼドイツ人だけで構成される小共和国になりました。
連邦制
ソ連の「連」は「連邦」の「連」です。
旧ロシア帝国領の諸民族政権をボリシェヴィキが倒した後、それらの地域を一方的にロシアに組み込むのではなく、ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースといった各ソヴィエト共和国を成立させました。
これらが同盟を結ぶ形で創設されたのが、連邦制国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦です。
必要な知識を整理する
オーストリア=ハンガリー帝国の支配領域と民族構成
オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦で敗れ、講和条約によって領土が縮小されました。
オーストリアはサン=ジェルマン条約でほぼドイツ人の国家、ハンガリーはトリアノン条約でマジャール人中心の王国となりました。
オスマン帝国の支配領域と民族構成
- 1911年のイタリア=トルコ戦争で北アフリカを失う
- 1912年の第1回バルカン戦争でイスタンブル周辺以外のヨーロッパ領土を喪失
- 第一次世界大戦敗北後、1920年のセーヴル条約で中東アラブ地域を放棄
- 1922年に帝国滅亡、翌1923年にトルコ共和国成立(ローザンヌ条約で国境確定)
ロシア帝国の支配領域と民族構成
ロシアでは二月革命で帝政が崩壊し、ボリシェヴィキの十月革命を経て1922年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカース各共和国が連邦制国家のソ連を樹立しました。
清の支配領域と民族構成
- 1912年、辛亥革命により満州人統治の清が滅亡→中華民国が成立
- 中華民国は漢族・満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の“五族共和”を掲げ、清朝の版図を引き継ぐ方針を打ち出す
- 外モンゴルやチベットが独立宣言を行うも、中華民国政府は正式には認めず自治にとどめた
- 新疆では漢族が実権を握り、実質的に支配を拡大
解答例
第一次世界大戦の前後にあたる1910年代から1920年代にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国は、多民族の国民統合に失敗し、第一次世界大戦後の講和条約などによる領土縮小の末にオーストリアはほぼドイツ人のみの小共和国、オスマン帝国はほぼトルコ人のみの小国となった。一方、ロシア帝国と清では、それぞれ革命を経て誕生したソ連や中華民国が、旧領土や民族構成をある程度保持しつつ新体制を樹立した。ソ連は連邦制を採り、ウクライナやベラルーシなど各ソヴィエト共和国を包含しながら旧ロシア帝国の支配領域や民族構成の維持を図った。中華民国は五族共和を掲げ、チベットや外モンゴルなど清朝支配下だった地域を支配下にとどめようとした。外モンゴルやチベットは革命を機に独立宣言をしたが中華民国はこれを容認せず、自治扱いにとどめた。(359文字)
問(2)
設問条件から構成を考える
本設問では、まず1910年代から1920年代にかけて国際社会で提唱された新たな原則を明示し、その適用状況を述べたうえで、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の事例に触れることが要求されています。
具体的には、ウィルソンの平和十四カ条やソヴィエト政権の「平和に関する布告」に盛り込まれた「民族自決」が大きな焦点となり、その実際の運用や限界について論じる必要があります。
指定語句から書くべき内容を考える
委任統治
第一次世界大戦後、敗戦したオスマン帝国の非トルコ人地域(イラク・シリア・パレスチナなど)が英仏によって委任統治下に置かれた事例を必ず記しましょう。
ウィルソン
米大統領ウィルソンが掲げた「平和十四カ条」の中で、民族自決が打ち出された点を指摘しましょう。
チェコスロヴァキア
旧オーストリア=ハンガリー帝国領から独立した多くの国家のうちの代表例としてチェコスロヴァキアを挙げましょう。
平和に関する布告
第一次大戦中にソヴィエト政府が民族自決を訴えた布告として言及しましょう。
以上を踏まえたポイントの整理
①「民族自決」
各民族が自らの意思で国家の帰属や政治組織を決定するべきだという主張を指し、第一次世界大戦期にウィルソンの平和十四カ条や、ソヴィエト政府の「平和に関する布告」で取り上げられた。
②適用をめぐる事情
「一民族一国家」という思想として受容されたため、中・東欧地域では新興の独立国家が次々と誕生した。
ヨーロッパ以外の地域では実際の適用が限定的だった。
③オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の事例
・オーストリア=ハンガリー帝国
解体後にチェコスロヴァキアなどの新国家が生まれ、多民族国家の構造が大きく再編された。
・オスマン帝国
民族自決がほとんど認められず、非トルコ人地域はイギリス・フランスの委任統治下に置かれた。
アラビア半島だけはイブン=サウードの独立が認められたが、その他の多くの地域では欧米列強の思惑が優先された。
解答例
この時期に提唱された新たな原則は、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの「平和十四カ条」やソヴィエト政府の「平和に関する布告」に盛り込まれた「民族自決」である。これは各民族が自らの意思で国家や政治形態を決定すべきだとする主張で、中・東欧では旧オーストリア=ハンガリー帝国領からチェコスロヴァキアなど新興国が次々と誕生した。一方でヨーロッパ以外への適用は限られ、オスマン帝国の非トルコ人地域ではイギリスやフランスの委任統治がおこなわれ、アラビア半島の一部を除いて独立は認められなかった。(239文字)
第2問
小論述問題(60字×2、90字×2、120字×1)と一問一答×2です。
本問は、短い字数内で得点に直結する単語・フレーズを的確に書く必要があるのが特徴です。
以下、設問ごとに見ていきましょう。
問(1)
(a):小論述(60字想定)
・出題内容
①9世紀に東南アジアに広まっていた仏教の名称
②その仏教の特徴
③関連する遺跡
・解答のポイント
①仏教の名称は「大乗仏教」
②菩薩信仰による大衆救済重視が特徴
③ジャワ島のシャイレンドラ朝が建立したボロブドゥールが代表的遺跡
これらをうまくまとめて2行以内で簡潔に書き切ります。
なお、東南アジアに伝わった仏教といえば上座部仏教を想起しがちですが、この問題では大乗仏教が正解となるため、混同に注意が必要です。
解答例
大乗仏教が広まり菩薩信仰による衆生救済を重視した。その代表的遺跡としてシャイレンドラ朝が建造したボロブドゥールがある。(59文字)
(b):一問一答
・出題内容
「7世紀から8世紀にかけてマラッカ海峡を通る海上交易路を支配した王国」を問う問題です。
・正解
シュリーヴィジャヤ王国
(c):小論述(60字想定)
・出題内容
①7世紀にナーランダー僧院で学んだ中国の仏教僧の名前
②その人物の事績
①玄奘、義浄
②持ち帰った仏典を漢訳した。それぞれ旅行記『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』を著した。
解答例
玄奘と義浄が持ち帰った仏典を漢訳し、それぞれ旅行記『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』を著して現地や道中の状況を伝えた。(58文字)
問(2)
(a)小論述(90字想定)
・出題内容
①1932年~1937年のイタリアの対外政策
②それに伴う国際的な政治環境の変遷
①イタリアの対外政策
エチオピア侵攻
ベルリン=ローマ枢軸の成立
スペイン内戦への介入(フランコ側支援)
三国防共協定の締結
国際連盟からの脱退
三国枢軸の成立
②国際政治の変化
イタリアのエチオピア侵攻に対して英仏は宥和的な態度を取り、結果としてイタリアは国際的孤立を深めていった。
ドイツとの提携(枢軸関係)が強まる点にも言及しましょう。
解答例
ムッソリーニ政権はエチオピア侵攻やベルリン=ローマ枢軸の成立などを進めた。英仏は初期に宥和策をとったが、イタリアが国際連盟脱退後にさらにドイツに接近すると国際社会から孤立した。(88文字)
(b)小論述(90字想定)
・出題内容
①ムッソリーニが強調しようとした古代ローマ帝国の側面
②古代ローマ帝国の最高権力者の名前
①古代ローマ帝国の側面
イタリア半島から出発し、地中海全域を征服して最大版図を築いた。
ブリタニア、北アフリカ、メソポタミアまで広がる大帝国となり、多民族を支配したという点が強調される。
②最高権力者の名前
地中海統一時のアウグストゥスや、最大版図時の皇帝としてトラヤヌスが挙げられる。
解答例
ムッソリーニは、イタリア半島で建国された後で勢力を拡大し、アウグストゥスのときに地中海世界を統一し、トラヤヌス帝のときに最大版図を実現した古代ローマ帝国の威光を喧伝した。(85文字)
問(3)
(a)小論述(120字想定)
・出題内容
キューバ危機の概要、および危機に至るまでの経緯を書く問題。
・ポイント
1959年のキューバ革命でカストロが政権を掌握し、1961年に社会主義を宣言してソ連と接近しました。
1962年にソ連がキューバにミサイル基地を建設したことを受け、米ケネディ大統領が海上封鎖に踏み切りました。
フルシチョフがミサイル撤去に応じ、核戦争は回避されました。
解答例
1959年の革命でキューバでは親米バティスタ政権が打倒されカストロ政権が成立した。1961年に社会主義宣言をしてソ連と接近した翌年、ソ連がキューバにミサイルを配備するとアメリカが海上を封鎖し、ミサイル撤去を要求して核戦争の危機に陥った。(118文字)
(b):一問一答
・出題内容
アンゴラの旧宗主国を問う問題。
・正解
ポルトガル
1974年のポルトガル民主化革命(カーネーション革命)によって植民地支配が放棄され、アンゴラは1975年に独立しました。
第3問
以下は、第3問の各小問に対するコメントおよび解説です。
毎年恒例となっている一問一答形式で、いずれも基礎力の確認に直結する問題が中心なので、確実に正解しておきたいところです。
問(1):ウ
地図を用いて、国ごとの都や立地条件を把握しているかどうかを確認する問題といえます。
宋の都は開封で、洛陽は黄河の支流沿いに位置し、長江下流域(江南)は水田が開発された重要な食糧供給地でした。
こうした地理情報は、日頃から資料集等で確認しながら暗記を進めておきましょう。
問(2):北魏
「6世紀の中国の王朝で、洛陽を都とした」という条件を満たすのは北魏です。
つい隋を思い浮かべる受験生も多いですが、隋の都は大興城(長安付近)なので誤答に注意しましょう。
北魏は鮮卑族が建国し、華北を統一した後に都を平城(現在の大同)から洛陽へ移し、漢化政策を推進しました。
王朝と都の対応は重要ポイントです。
問(3):詞(宋詞)
「宋代の新たな庶民文化」で「楽曲に合わせて歌うもの」は、雑劇ではなく“詞”に当たります。
詞は宋代の代表的な文芸ジャンルであり、大衆文化の発展を象徴する存在でもあります。
雑劇は歌劇的要素を含む演劇ですが、ここでは条件を満たさないので注意が必要です。
問(4):アケメネス朝
新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人のバビロン捕囚を解放した王朝はアケメネス朝ペルシアです。
異民族に対して厳しい政策をとったアッシリアと比較してアケメネス朝の寛容策を述べる問題は世界史記述問題で定番のテーマです。
誤答が許されない必須事項といえます。
問(5):メッカ
資料(図)ではキリスト教徒・ユダヤ人・アルメニア人の地区がすでに示されており、残る選択肢として「ムスリム地区」が自然に浮かびます。
イスラームで最も重要な聖地はメッカであるため、図から冷静に導き出せる問題でした。
知識と資料読解力の両面が問われています。
問(6):ドイツ騎士団(ヨハネ騎士団、テンプル騎士団も可)
十字軍時代に活躍した宗教騎士団の名称を問う問題です。
第3回十字軍下のアッコンで成立したドイツ騎士団が代表格で、エルベ川以東の植民活動で知られます。
また、ヨハネ騎士団やテンプル騎士団も同時期に活躍しました。
いずれかひとつを挙げれば正解となります。
問(7):ラビン、アラファト
パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)に調印した際のイスラエル首相とPLO議長の氏名を答える問題です。
教科書や資料集に掲載されている、アメリカ大統領クリントンの仲介でラビンとアラファトが握手する有名な写真を思い出せれば難しくありません。
現代史の学習も入念に行っておきたいところです。
問(8):マンチェスター
正解には二段階の思考が必要です。
まず18世紀後半のイギリスで起こった大きな変化が産業革命であると把握し、次に産業革命期に人口増加が著しかった都市のうちグラフに示されていない都市がマンチェスターだと突き止める流れです。
マンチェスターは綿工業の中心地として名高いので押さえておきましょう。
問(9):万国博覧会
ここも二段階の推理が求められます。
グラフの都市Cがロンドンだと特定したうえで、1850年前後にロンドンで開催された国際的な催しは万国博覧会(ロンドン万博)であると判断する必要があります。
2025年大阪万博を念頭に置いた時事的な出題ともいえます。
問(10):オーストラリア
18世紀後半のイギリスにおいて囚人の流刑植民地とされ、やがてイギリス連邦の一員になった国はオーストラリアです。
オーストラリアが流刑植民地であったことは、一度は確認しておきたい基本知識です。
まとめ
今回の「東京大学 世界史2025」では、従来の通史的知識だけでなく、現代の国際情勢や時事的なテーマとも結びつけて考察を深める問題が散見されました。
ソ連の成立経緯を扱った第1問やイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の和平協定(オスロ合意)を問う第3問、さらには万国博覧会の歴史的意義を問いながら2025年の大阪・関西万博を連想させる出題でそれが顕著です。
こうした構成は、「歴史を過去の出来事にとどめず、現在や近未来との接点として捉える視点が求められている」といえるでしょう。
たとえば、イスラエルとPLOの和平協定は今なお対立が続くパレスチナ問題と深く関連しており、ロシア帝国とソ連の領域再編は現代のウクライナ情勢との関連で再注目されています。
また、万国博覧会(万博)の歴史は2025年に開催される大阪・関西万博の意義や位置づけを考察するヒントにもなるでしょう。
受験生にとっては、教科書や資料集を使った基礎知識の定着だけでなく、こうした現代とのつながりや歴史を継承する意義を常に意識して勉強しておくことが、今後ますます重要になると考えられます。
大学入学後にも通用する「複眼的な視点」を身につけるために、歴史上の事象と現代社会の諸問題を関連づけながら学ぶ姿勢を大切にしてください。