2019年の東大日本史第2問設問Aでは、承久の乱について、その後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にふれつつ2行(約60字)以内で説明する問題が出題されました。
本記事では、承久の乱の概要とその影響、特に朝廷と鎌倉幕府の関係の変化について詳しく解説します。
資料の読み取り
文章(1)
幕府が後鳥羽上皇の帰京という朝廷側の提案を拒否したことから、幕府は朝廷の意思決定に介入することができたと判断できます。
講義:承久の乱とその後の朝廷・鎌倉幕府の関係
承久の乱の概要
1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒を図り、北条義時追討を掲げて挙兵しました。
しかし、幕府が勝利して後鳥羽上皇は隠岐へ配流されました。
承久の乱の影響
1:鎌倉幕府の戦後措置
- 後鳥羽上皇ら3上皇を配流
- 仲恭天皇を廃位とし、後堀河天皇を擁立
- 院方所領を没収し、新しく地頭を補任
- 京都に六波羅探題を新設
2:朝廷と鎌倉幕府の関係の変化
承久の乱の影響を一言で言うと、「幕府が朝廷に対して優位に立った」ことです。
これにより従来の朝廷と幕府の二元支配が大きく変化し、幕府の影響力が強まりました。
①鎌倉幕府は皇位継承や朝廷の政治に介入するようになった
鎌倉幕府は承久の乱以降、皇位継承や朝廷の政治に積極的に介入するようになりました。
その象徴的な存在が六波羅探題であり、朝廷の監視や交渉を担当することで幕府の影響力を強めていきました。
また、治天の君の決定権も幕府が握るようになり、皇位継承に直接関与する体制が確立されました。
さらに、幕府と良好な関係を築いた上皇や貴族が朝廷内で重んじられるようになり、朝廷の中枢において幕府の意向が大きく反映されるようになりました。
②鎌倉幕府は西国の支配権を強化した
鎌倉幕府は、もともと東国を実質的な支配地域とする武家政権として成立しました。
しかし、承久の乱によって朝廷に対する優位を確立するとともに、西国への支配を強化していきました。
承久の乱後に幕府は上皇方の貴族や武士の所領を没収し、それらの土地を恩賞として御家人に与えて地頭に任命しました。
この新たに任命された地頭は「新補地頭」と呼ばれ、その給与は「新補率法」という基準に基づいて定められました。
これにより、西日本にも地頭が配置され、幕府の勢力は全国へと広がっていきました。
畿内や西国にも東国の御家人が多く進出し、幕府の支配地域はさらに拡大しました。
さらに、京都に設置された六波羅探題は京都市中の警備だけでなく、西国の御家人の統括や統率も担当して幕府と連携しながら西国の行政や司法を管理する役割を果たしました。
解答例
後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を図った承久の乱に幕府が勝利して西国支配権を強化し、朝廷に対して優位に立ち意思決定に介入した。(59文字)