「1881年の明治十四年の政変で政府は国会開設や憲法制定に関してどのような方針をとったか説明してほしい。」
「国会開設の勅諭直後の自由民権運動はどのように展開されたの?」
「軍人勅諭はどのような経緯や目的で発布されたの?」
2020年の東大日本史第4問Bでは、1882年の軍人勅諭で軍人は忠節を尽くすよう掲げた政府の意図について、当時の国内政治の状況に即して3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の3つのポイントを中心に解説します。
- 1881年の明治十四年の政変
- 明治十四年の政変直後の自由民権運動の展開
- 軍人勅諭が発布された経緯と目的
1881年の国内政治の状況について、政府・自由民権運動の両側から分かりやすく解説します。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(2)
忠節を尽くす/忠節を守れ
軍人は天皇に忠誠を誓い、忠節を尽くすことが求められていることを強調しています。
政治に関わらず
軍人は政治に関与せず、軍務に専念すべきであるという原則が示されています。
軍隊の政治的中立が明確にされ、軍人は政治的な動きに関わらないことが期待されています。
講義
1880年・1881年の国内政治の状況
1880年に結成された国会期成同盟は組織的に国会開設を求め、全国的な運動が展開されました。
その結果、民間では私擬憲法が次々と作成されました。
この動きを受けて、政府は民権派の急進的な活動を抑制するために集会条例を制定し、政治集会を規制する措置を講じました。
一方で、政府内部でも国会開設の時期や憲法構想をめぐって激しい対立が生じました。
議会の権限の強いイギリス流の議院内閣制を支持する大隈重信とドイツ流の君主の権限が強い立憲君主制を支持する岩倉具視らが対立しました。
最終的に、1881年の明治十四年の政変で大隈重信は参議から罷免されました。
この政変を通じて政府は欽定憲法を制定し、天皇と政府の権限を強化した政治体制を構築する方針を決定しました。
また、政府は国会開設の勅諭を出して1890年に国会を開設することを公約しましたが、民権派の活動は続きました。
自由党や立憲改進党などの政党が相次いで設立され、自由民権運動はますます活発化しました。
軍人勅諭発布の経緯と目的
軍人勅諭が発布された背景には、自由民権運動の急展開がありました。
民権思想が軍隊内にも波及することを恐れた政府は、軍人の政治関与を排除して軍隊を天皇の指揮下に置こうとしました。
すでに1878年には参謀本部が設けられ、軍の統帥権が天皇に委ねられて政府から独立した統帥権の構築が進められていました。
そして1882年に、将来の国会開設によって民権派が政界に進出することが予測されるなかで軍隊が政党の影響を受けることを防ぐために軍人勅諭が出されました。
軍人勅諭では天皇が軍隊を統帥する大元帥であることが強調され、軍人には天皇に忠節を尽くすことが求められました。
これには、国会や内閣が統帥権に関与できないようにすることで軍の独立を確立する目的がありました。
解答作成
自由民権運動が盛んになるなかで政府が国会開設の勅諭を出し、民権派が政党を結成した。そうしたなかで政府は軍人の政治関与や政党の軍への介入排除のために天皇による軍隊統帥を明確にした。
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