【東大日本史2020】1878年に「軍人は『民権家風』の風潮に染まってはならない」という主張がなされた背景にある当時の政府の方針と社会の情勢|第4問A

東大日本史2020第4問設問A軍人が「民権家風」に染まってはならないという主張の背景にある当時の政府の方針と社会の情勢 日本史

「明治政府に対する士族の反政府運動はどのような経緯で盛んになったの?」
「不平士族による反乱について解説してほしい」
「自由民権運動の展開とそれへの明治政府の対応を整理したい」

2020年の東大日本史第4問Aでは、「軍人は『民権家風』の風潮に染まってはならない」という主張がなされた背景にある、当時の政府の方針と社会の情勢について3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、以下の3つのポイントを中心に解説します。

  • 明治政府に対する士族の反政府運動が盛んになった経緯
  • 不平士族の反乱
  • 自由民権運動の展開とそれへの明治政府の対応

明治政府成立直後に起こった士族の反政府運動と、それに対する政府の対応を分かりやすく解説します。
ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(1)

「民権家風」

この言葉は、自由民権運動を想起させます。
これは、当時の政府に対して、より民主的な制度を求める声が高まっていたことを示唆しています。

大元帥である天皇を戴き

軍人が旧藩の意識にとらわれて反乱を起こすことを防ぎ、天皇を中心とする新たな国家体制に忠誠を誓うべきだという主張が込められています。
ここでは、特に天皇の命令に従うことが強調され、国家の一体性を図る意図が見えます。

政府は(中略)専権圧政の体制を脱し

江戸時代の封建的な身分制度の解体とそれに続く近代化を反映しています。
徴兵制の導入によって士族の特権的な軍事的役割がなくなり、秩禄処分廃刀令を通じて旧武士階級が解体された点が想起されます。

人民の自治・自由の精神を鼓舞

漸次立憲政体樹立の詔が示されたこともあり、立憲制への移行が政府の方針として掲げられていたことを背景にして、政治的な自由や自治を徐々に進めていく動きが読み取れます。

講義

士族による反政府運動とそれに対する政府の対応

士族による反政府運動は、明治政府の急速な近代化政策に対する反発から始まりました。
明治政府による身分制の解体や少数の藩閥官僚による専制的な政治体制に対して不満が高まっていました。

特に、四民平等が導入されて武士の特権が否定されたことが士族階級の不満の大きな原因となりました。
百姓や町人にも苗字が許可され、移住や職業選択の自由が認められるなど、身分の区別が薄れる改革が進められました。

また、徴兵令の発令によって、国民皆兵の原則のもと武士に限らずすべての人民が兵役の義務を負うようになり、士族が軍事的特権を失いました。
さらに、秩禄処分廃刀令によって士族は経済的基盤や武装する権利を奪われました。
秩禄処分は士族の秩禄を金禄公債証書に変えて支給を全廃する措置であり、旧武士階級の封建的特権を有償で解消し、国家財政を軽減する目的がありました。
廃刀令は、警官と軍人以外の帯刀を禁止し、士族の武装解除を進めました。

このような一連の改革に対する士族の不満が爆発し、1873年の明治六年政変を契機として西郷隆盛や板垣退助ら征韓派が政府を去ると、不平士族の組織的な反政府運動が本格化しました。

不平士族の反乱

不平士族の反乱は、明治政府の急速な近代化政策に対する強い反発から生じました。
秩禄処分や廃刀令によって旧武士階級である士族は特権を失い、社会的地位が低下しました。
これに対する反発が一連の反乱へとつながり、1874年の佐賀の乱を皮切りに、敬神党の乱、秋月の乱、萩の乱と各地で武力蜂起が相次ぎました。

特に1877年の西南戦争は不平士族の反乱の中でも最大規模の内乱となり、指導者である西郷隆盛が鹿児島で士族の教育を行っていた私学校の生徒を中心に挙兵しました。
この反乱は戊辰戦争以来の大規模な内乱となり、西郷自身が自害することで終結しました。

西南戦争の終結は士族による武力反乱の終焉を意味するとともに、国民皆兵を原則とする徴兵制に基づく近代的な軍隊の強さを明らかにするものでした。
この後、反政府運動は武力から言論を中心とした自由民権運動へと移行していきます。

自由民権運動

自由民権運動は、1874年の民撰議院設立建白書をきっかけに本格的に始まりました。
これは、征韓論政変で政府を去った板垣退助らが国民の意見を反映させるために国会の開設を求めた運動で、士族を中心に展開されました。

その後、1877年の西南戦争によって国民皆兵を原則とした徴兵制に基づく近代的な軍隊の力が明らかになると、反政府運動の中心が言論へと移行しました。
この変化により、自由民権運動は次第に士族だけでなく豪農や地主、商工業者など幅広い層を巻き込んで発展していきました。
特に農民の地租軽減要求と結びつき、運動は全国的な広がりを見せました。

1880年には国会期成同盟が結成され、国会開設を目指した組織的な運動が展開されました。
政府はこれに対抗して集会条例を制定し、民権派の急進的な活動を抑制する措置を講じました。
しかし、その後も自由民権運動は盛り上がりました。

漸進的な立憲体制への移行

1873年の明治六年の政変により西郷隆盛や板垣退助ら征韓派が政府を辞職し、その後の政府内の混乱や自由民権運動の勃発、さらには台湾出兵に対する抗議による木戸孝允の辞職が重なり、政府の中心人物であった大久保利通は政権の安定に強い危機感を抱きました。
そこで、1875年に大久保は下野していた板垣退助や木戸孝允と大阪会議を開き、立憲制への移行に向けた歩み寄りを図りました。
この会議により立憲体制への移行が正式に認められ、木戸・板垣の政府復帰が実現しました。

その後政府は漸次立憲政体樹立の詔を発布し、これに基づいて元老院(立法機関)や大審院(司法機関)、さらに地方統治を見直すための地方官会議を開催するなど立憲体制への漸進的な移行を進めました。
この動きは三権分立を意識した改革であり、急激な改革ではなく、漸進的なプロセスを経ることが目的とされました。

1878年には郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則などの地方三新法が制定され、地方自治が強化されました。
これにより公選制の府会や県会が設置され、一部ではありますが民意が政治に反映される仕組みが整えられました。これにより、豪農や地主などが政治に参加できるような制度が構築されました。

しかし一方で、新聞紙条例や讒謗律を通じて言論や出版の規制が強化され、民権運動への弾圧が進められました。

解答例

政府は身分制を解体し、士族の特権を否定した。漸進主義で立憲制の導入をすすめていたが、相次ぐ不平士族の反乱や国会の開設を求める自由民権運動といった士族の反政府運動が展開されていた。
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