「江戸幕府は朝廷にどのような役割を期待したの?」
「江戸幕府はどのように朝廷を統制したの?」
「18世紀後半以降、江戸幕府と朝廷の関係はどう変化したの?」
2020年の東大日本史第3問Aでは、江戸時代における暦の改定に際して幕府と朝廷がそれぞれどのような役割を果たしたのかについて両者を対比させながら2行(約60字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の3つのポイントを中心に解説します。
- 江戸幕府が朝廷に求めた役割
- 江戸幕府による朝廷統制のしくみ
- 18世紀後半以降の江戸幕府と朝廷の関係の変化
江戸時代の幕府と朝廷の関係およびその変化を整理できる記事となっています。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
資料文(1)
江戸幕府はこれ(渋川春海が考案した暦)を採用し、天体観測や暦作りを行う天文方を設置して、渋川春海を初代に任じた
幕府は渋川春海が考案した新しい暦を正式に採用しました。
そして天体観測や暦作成を専門とする「天文方」を設置し、渋川春海を初代天文方に任命しました。
渋川春海の尽力により実用性・精度の高い暦の開発が実現し、江戸幕府の権威も強化されました。
このように、幕府が新暦の策定を主導しました。
資料文(2)
朝廷は(中略)暦を改める儀式を行い、渋川春海の新たな暦を貞享暦と命名した
暦を改める儀式や暦の命名という伝統的・儀礼的な役割は朝廷が担いました。
朝廷は、儀式と命名を通じて貞享暦の権威を全国に広める象徴的な役割を果たしました。
幕府は翌1685年から貞享暦を全国で施行した
朝廷が担った儀式的な役割に対し、幕府は全国での貞享暦の施行という実務的な役割を果たしました。
この手順は江戸時代を通じて変わらなかった
江戸時代を通じて、改暦に際する役割分担は一貫しており、他の改暦においても同様のプロセスが踏まれました。
幕府が実務的な決定と施行を担い、朝廷は儀礼的な形式を整えるという役割分担が維持されました。
講義
江戸幕府と朝廷の関係
幕府が朝廷に求めた役割
経済基盤の保障と儀礼の復興
江戸幕府は天皇や公家に対して経済的な基盤を保障し、朝廷の儀礼や神事の再興を認めることで伝統の継承を促しました。
具体的には、禁裏御料として約10万石を与えて財政的に困窮していた朝廷が行事を続けられるよう支援しました。
京都所司代と武家伝奏の役割
また、幕府は朝廷の監視と管理を徹底するため京都所司代に譜代大名を配置し、朝廷と幕府を結ぶ役割を担う武家伝奏を任命しました。
これにより、朝廷の運営は幕府の意向に沿う形で統制されました。
幕府は朝廷の運営を五摂家に委ね、摂家の指導によって朝廷の安定を図りました。
天皇の譲位と生活の統制
幕府は、後水尾天皇の譲位に介入することで朝廷運営への関与と権力の優位性を示しました。
また、禁中並公家諸法度を通じて天皇や公家の生活や行動を規制して学問を修めることを求めるなどして政治への関与を排除しました。
紫衣事件では、天皇の勅許を幕府が無効とすることで法度が天皇の意思に優越することを明確にし、朝廷の統制を強化しました。
学問・儀礼の継承と象徴的な役割
公家に対しては各家の学問や家業を継承することを求め、朝廷に学問的な伝統を守らせました。
天皇には政治に関与しない代わりに、神事などの儀礼の遂行を求め、国家の精神的支柱としての役割を期待しました。
幕府は天皇・朝廷の権威を維持させ、これを幕府支配の正当化に利用しました。
幕府が朝廷に権威を付与させた事例
①征夷大将軍の宣下
徳川家康は関ケ原の戦いに勝利した後、征夷大将軍の宣下を受け、全国の武士を統率する権限を得ました。
さらに息子の秀忠にも将軍宣下を受けさせ、征夷大将軍の世襲制を確立することで天皇の権威を通じて全国支配を正当化しました。
②官位叙任権の掌握
禁中並公家諸法度によって武家の官位叙任権を掌握し、官位を大名や旗本の序列づけに利用しました。
これにより、幕府は支配階層の内部での秩序を維持し、体制の安定を図りました。
③徳川家康の神格化
徳川家康の死後には彼を東照大権現として神格化し、天皇からの勅許により日光東照宮に祀らせました。
さらに、伊勢神宮と同様の格式を持たせるため日光例幣使を派遣させ、将軍の権威を天皇に並ぶ存在として確立しました。
このように、幕府は朝廷を形式的な存在に留めながらその権威を巧みに活用して支配の正統性を高めました。
実務面の権限は幕府が掌握し、朝廷には伝統と儀礼の維持という象徴的な役割を担わせることで江戸時代の安定が保たれたのです。
18世紀後半以降の江戸幕府と朝廷の関係変化
18世紀後半、幕府内部では 大政委任論 が浮上しました。
これは、幕府が天皇・朝廷から軍事だけでなく国政全般の決定と実行を委任されているとする思想です。
この背景には、飢饉による社会不安やロシアの蝦夷地接近といった外圧があり、幕府の権威維持のために朝廷の象徴的な権威に頼る必要が高まったことが影響しています。
宝暦事件(18世紀中頃)
宝暦事件では、垂加神道家の竹内式部が桃園天皇に『日本書紀』神代巻を進講して天皇が君主としての自覚を強めました。
この出来事は摂家と武家伝奏による朝廷統制を乱したとされ、竹内式部は京都所司代によって追放されました。
これは、幕府の朝廷統制に亀裂が生じた象徴的な事件です。
尊号一件(18世紀末)
尊号一件(尊号事件)では、光格天皇が自らの父である閑院宮典仁親王への 太上天皇の尊号宣下 を求めて幕府と対立しました。
光格天皇は関白と武家伝奏を交代させ、さらに広く公家の支持を集めて幕府に尊号を求めましたが、老中 松平定信 はこれを拒絶しました。
最終的に、関わった武家伝奏らは処罰され、形式的には摂家主導の朝廷統制が維持されましたが、この事件を通じて、朝廷が幕府の統制を揺さぶり始めたことが明らかになりました。
幕末における朝廷の対外政策への関与(19世紀)
19世紀に入ると、ロシアによる 蝦夷地襲撃事件を契機に、幕府は対外的な危機に対して朝廷に報告を行うようになりました。
さらに、アヘン戦争(1840年~42年) による中国の敗北は日本の外交政策に大きな衝撃を与え、対外的な危機感が国内で高まりました。
この状況下で、幕府は朝廷に随時外交関係を報告するようになります。
これにより朝廷の影響力が外交問題にも拡大しました。
幕府が朝廷の権威を必要とした一方、朝廷は外交問題に対する発言力を増していき、次第に幕府と朝廷の関係は複雑化しました。
条約勅許問題と幕府統制の崩壊(19世紀中頃)
1858年に幕府が日米修好通商条約を締結する際、孝明天皇の勅許を求めました。
しかし、攘夷派の強い反対を背景に孝明天皇はこれを拒絶し、勅許がないまま幕府は条約に調印します。
この結果、幕府は安政の大獄で攘夷派を弾圧しますが、桜田門外の変で弾圧が失敗して幕府の権威が大きく揺らぎました。
和宮降嫁と朝廷の影響力拡大(19世紀中頃)
幕府と朝廷の力関係が逆転するなかで幕府は孝明天皇の妹 和宮 を14代将軍徳川家茂に降嫁させ、朝廷との関係修復を図ろうとしました。
これにより一時的に朝幕の融和が図られましたが、幕府の支配体制が崩れつつあることは明白で、幕府の朝廷統制の枠組みは解体されていきました。
解答例
幕府は暦の作成や全国での施行という実務的な役割を果たし、朝廷は改暦の儀式や暦の命名という儀礼的な役割を果たした。
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