「16世紀に都市はどのように発達したの?」
「戦国時代の京都はどのような自治をおこなったの?」
「戦国時代の京都で祇園祭の山鉾はどのように運営され、自治のあり方にどのように影響したの?」
2020年の東大日本史第2問では、16世紀において山鉾はどのように運営され、それが町の自治のあり方にどのように影響したのかについて5行(約150字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、次の3つのポイントを中心に解説します。
- 16世紀における都市の発達
- 戦国時代の京都の自治
- 戦国時代の京都において祇園祭の山鉾はどのように運営され、どのように自治のあり方に影響したか
16世紀の日本の都市における自治のあり方を理解できる内容となっています。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(1)
室町幕府が命じると、(中略)と主張した
室町幕府の命令に従わず抵抗するほどの強い自治権を持っていたことがわかります。
下京の六十六町の月行事たちは…
山鉾巡行は「下京の六十六町」が主体となって共同で運営していました。
これらの町は連携して祭りを行うことで連帯感を強めていた。
山鉾巡行を主導していたのは各町の指導者である「月行事」という役職にあった人々で、彼らが自治の中心的な存在でした。
文章(2)
下京の各町では、祇園祭の山鉾を確実に用意するため、
山鉾を用意するのは「下京の六十六町」の各町であり、町単位で準備をしていました。
これにより、町ごとの独立した運営がなされていたことが確認できます。
他町の者へ土地を売却することを禁じるよう
他町への土地売却を禁じることで町の成員が固定化し、地元住民の地縁的な結びつきが維持・強化されました。
これにより、町の共同体意識が強まりました。
禁じるよう幕府に求めた
町自らが規制を行うのではなく幕府に規制を依頼していることから、町自体の規制力は元来それほど強くなかったと推測できます。
しかし、山鉾の運営を通じて町の規制力が強化されていったことがうかがえます。
町の住人に賦課された「祇園会出銭」から「山の綱引き賃」を支出したりした
町の住人に「祇園会出銭」という形で費用を賦課し、その収入をもとに山鉾の巡行に必要な経費を支出していました。
これにより、町が独自の財政運営をしていたことがわかります。
山鉾の運営は町の自治的な財政基盤形成のきっかけとなり、自治運営の根拠にもなっていました。
文章(3)・図1
長刀鉾、蟷螂山、傘鉾
祇園祭において巡行する山鉾の一部が「長刀鉾」「蟷螂山」「傘鉾」として紹介されています。
これらの山鉾の存在は個々の町が特色を持った山鉾を出していたことを示しており、町のアイデンティティの一部になっていたことがわかります。
図1
図1から、山鉾は巨大で華麗な装飾が施されていることが確認できます。
これは山鉾を作るためにかなりの費用と労力が必要であったことを示しており、町の経済力と共同体としての協力が欠かせなかったことを意味します。
図1に描かれた山鉾の巡行は非常に整然としており、これは町全体が一体となって運営にあたっていたことを示唆しています。
巡行の準備や実施は、町内の住人同士の協力を促し、連帯感を強める大きな契機となっていました。
山鉾の巡行そのものが町の住人同士の結びつきを強化する役割を果たしていました。
町の住人が一丸となって準備し、巡行を成功させることで、地域内の結束力が高まっていったことがわかります。
文章(4)・図2
通りをはさんだ両側町が存在していたことが示されています。
このことから通りを中心にして町が社会的、経済的な単位として機能していたことがわかります。
山鉾巡行の際には両側町が協力して運営することで、より強い結束が生まれていたと推測されます。
図2
現代の京都市街図には「長刀鉾町」「蟷螂山町」「傘鉾町」といった、山鉾に由来する町名が残っています。
これにより、山鉾が町のアイデンティティ形成に大きな影響を与え、現代にまでその影響が続いていることが示されています。
講義
戦国時代の都市の発達
都市の発達
戦国時代には農村手工業や商品経済の発展によって商工業が成長し、遠隔地商業の活発化に伴って都市が発達しました。
各地には港町や宿場町が形成され、寺社の周りには門前町、また交通の要地には本願寺派の寺院を中心として寺内町が発展しました。
寺内町では宗教勢力が武家の介入を排除し、自由交易などの経済的特権を獲得するなどの自治が行われました。
さらに、戦国大名は城を中心に城下町を建設し、政治・経済・文化の中心として都市を発展させました。
町衆のよる自治運営
都市の内部では、商工業の発展により富裕な商工業者(町衆)が中心となって地縁的な共同体「町」が形成されました。
これらの町は自ら定めた町法によって自治を行い、住民の生活や営業活動を守りました。
また、堺や博多のような自由都市では町衆が中心となって自治が行われ、堺では会合衆、博多では年行司と呼ばれる豪商たちが市政を運営しました。
戦国時代の京都
京都でも、商工業の発展を背景に町衆による自治が発達しました。
京都は上京と下京に分かれ、それぞれが自治運営を行いました。
応仁の乱で中断した祇園祭は1500年に町衆たちによって復活し、祇園祭の山鉾巡行は各町の出費で運営されました。町衆の結束がこの祭りを通じて強まり、祇園祭は町衆の自治の象徴となりました。
解答例
山鉾の巡行は下京の六十六町の月行事が連帯して運営された。個々の山鉾は通りをはさんで形成された各両側町が住人から費用を徴収して用意した。山鉾の運営や他町への土地売却禁止による成員の固定化で地縁的結合が強まり、自治は室町幕府へ抵抗することもあるほど強力になり、山鉾の名に由来する町名は現在も残っている。
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