【東大日本史2021】地頭請が地頭の荘園支配に果たした役割|第2問設問B解説

東大日本史2021第2問設問B地頭請が地頭の荘園支配に果たした役割 日本史

「地頭による荘園侵略は何がきっかけで増えたのか?」
「地頭と荘園領主の紛争はどのように解決されたのか?」
「地頭請が地頭の荘園支配にどのような影響を与えたのか?」

2021年東大日本史第2問設問Bでは、「地頭請が地頭の荘園支配に果たした役割」について、検注や開発との関係にふれながら3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、次の3つのポイントを中心に解説します。

  • 地頭による荘園侵略が増加した背景
  • 地頭と荘園領主の紛争解決の方法
  • 地頭請が地頭の荘園支配に与えた影響

地頭が荘園領主との対立を経て、いかにして荘園支配を強化していったのかを理解できる内容です。
ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

諏訪孝明をフォローする
公式LINEでは、国公立大学2次試験の世界史・日本史・地理の論述を攻略するために必須な超有益情報を発信しています。ぜひ友達追加してください!

資料の読み取り

文章(1)

各地の地頭は積極的に荒野の開発を進め、田地を拡大していた

鎌倉時代の地頭は積極的に新しい田地の開発を進めていました。
これは彼らが耕地を広げ、収益を増加させるための重要な手段でした。
これにより、地頭による地域支配は強化されていきました。

文章(3)

それ以前に開発された田地の検注を地頭が拒否して、鎌倉幕府の法廷で裁判となった

地頭は荘園領主による検注(耕地調査)を拒否する場合がありました。
このような検注拒否は地頭と荘園領主の間で紛争を引き起こし、その解決は鎌倉幕府の法廷で裁判に委ねられました。

文章(4)

検注を拒否する地頭を鎌倉幕府に訴えたが、地頭請所であったため、検注の停止が命じられた

地頭請所であった場合、地頭は検注を拒否して荘園領主の介入を防ぐことができました。
幕府もこの契約を尊重し、検注を停止させたため地頭は幕府の保護のもとで独自の支配を進めることができました。このように、地頭請は地頭の支配権を強化する重要な役割を果たしました。

講義

地頭の荘園侵略とその影響

荘園領主と地頭との紛争の増加

鎌倉時代における地頭の侵略行為は、幕府の勢力拡大とともに顕著となりました。
地頭の任免権を将軍が握っていたため、地頭は荘園や公領の領主から独立して年貢の未納や押領を行う者も現れて荘園領主との対立が激化しました。

承久の乱(1221年)後に多くの地頭が畿内・西国に設置され、さらに寛喜の飢饉(1231年〜1232年)によって農業生産が大打撃を受けたことから、地頭と荘園領主との紛争がより一層増加しました。

紛争の解決手段

地頭と荘園領主の間で支配権をめぐる紛争が激化すると、幕府はその解決を図るために公正な裁判制度の整備に力を入れました。
その一環として1232年に御成敗式目が制定されました。
この法令には年貢を荘園領主に納めない地頭に対して解任も可能であることが明記されており、これに基づいて荘園領主は地頭の不正行為を訴えることができました。

荘園領主は幕府に対して地頭の年貢未納や押領行為を提訴し、裁判によって対抗しようとしました。
しかし、裁判の結果が荘園領主に有利であった場合でも地頭の年貢の未納や押領を完全に阻止することは困難であり、多くの場合は地頭との妥協を余儀なくされました。

このような状況下で、地頭と荘園領主の間では地頭請下地中分といった紛争解決策が取られるようになりました。これらの手段により双方の関係を調整し、紛争を収めることが試みられたのです。

地頭請

地頭請は地頭と荘園領主の紛争を解決するために、あるいは地頭による荘園経営への期待から各地で導入されました。
この制度では、荘園領主が地頭に荘園の管理を一任し、地頭は定額の年貢を納入することを請け負う契約を結びました。

地頭請の制度によって地頭は荘園領主の干渉を排除し、土地の開発を積極的に進めることができました。
また、地頭の支配力が強化されて地頭の領主化を促進する効果を発揮しました。
さらに、地頭請は地頭に対する幕府の保護を背景にしており、地頭が荘園領主による土地調査や課税を受けずに開発を進められる法的な根拠ともなりました。

このように、地頭請は地頭にとって荘園支配を強化する重要な制度でした。
荘園領主の影響力を抑えて地頭の勢力を拡大する手段となりました。

下地中分

下地中分とは、地頭による荘園侵略に対して領主と地頭が荘園や郷保における支配権と年貢の収納権を折半する制度です。
この制度では、荘園の下地(田畑・山林などの収益権がある土地)を領家分と地頭分に分割し、双方の支配権を明確にすることで、互いに侵略を行わないことを取り決めました。

この解決策は、地頭と荘園領主との対立が激化するなかで、土地と収益を平等に分けることで紛争を終結させ、安定した土地支配を確保するために実施されました。
結果として、地頭は自分の分割された土地に対する支配権を強化し、領主も自身の支配領域を確保することで相互の利害を調整しました。

下地中分は武士による土地支配の進展を象徴する制度であり、結果的に荘園公領制から武家領と荘園・公領が並立する体制へと変化する契機の一つとなりました。

地頭による荘園支配の伸展

旧来は荘官に過ぎなかった地頭が、地頭請下地中分の導入により荘園領主と同等の立場で土地や農民を支配する存在へと成長しました。
これは、武士による土地支配の進展を象徴する事態です。
特に、地頭は荘園の土地開発に積極的に取り組み、灌漑施設の整備などを通じて農業の振興を図り、名主や百姓たちの生産基盤を整えることで、彼らへの支配を強化していきました。

地頭請は、地頭がこれらの開発や支配を進めるための環境を整え、彼らが土地経営に対してより強力な立場を持つようにしました。
これにより、地頭は自らが管理する土地での自主的な開発が進み在地領主化が進行しました。

結果として、地頭が支配権を握る武家領と、荘園・公領の領主である公家や寺社が支配する本所一円地・寺社本所領が並立する状態が形成されました。
こうして、荘園制社会は従来の荘園公領制から武家領と本所一円地・寺社本所領が並立する新たな体制へと移行し始めたのです。

解答例

荘園領主が地頭に荘園の管理を一任する地頭請を根拠に、地頭は新たに開発した田地への荘園領主の検注や課税を拒否できた。これにより地頭の田地開発が積極化し、地頭の荘園支配力が強まった。
(89文字)

タイトルとURLをコピーしました