【東大日本史2021】13世紀の荘園領主が検注(土地の調査)を実施しようとした理由|第2問設問A解説

東大日本史2021第2問設問A13世紀の荘園領主が検注(土地の調査)を実施しようとした理由 日本史

「13世紀における中世荘園の様子が知りたい」
「中世荘園における地頭の役割を教えてほしい」
「地頭と荘園領主との対立がどのようなものか知りたい」

2021年の東大日本史第2問設問Aでは、「荘園領主が検注を実施しようとした理由」について2行(≒60字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、以下の内容について解説します。

  • 中世荘園の特徴、成立経緯、経営の仕組み
  • 地頭の役割
  • 地頭と荘園領主との対立

13世紀における中世荘園の様子が深く理解できる内容となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(1)

各地の地頭は積極的に荒野の開発を進め、田地を拡大していた

この記述から、13世紀の荘園において地頭が積極的に田地を開発して耕地拡大に貢献したことがわかります。

文章(2)

検注とよばれる土地の調査

検注が土地の調査であることがわかります。

検注では荘内の田地の面積などが調べられ、荘園領主に納める年貢の額が決定された

検注は年貢額を決定するために行われました。
検注では田地の面積や収穫量を調べることで荘園領主に納める年貢の額を確定させました。

文章(3)

検注は、荘園領主がかわった時などに実施されるのが慣例

検注は領主が代替わりする際に実施されました。
その土地を支配し、年貢を徴収する権利を有しているのは自分であることを明示する意図があったと考えられます。

それ以前に開発された田畑の検注を地頭が拒否

地頭が開発した田地について、荘園領主が行おうとした検注を地頭が拒否したことから両者の対立が明らかです。
荘園領主は検注によって地頭が開発した新たな耕地も課税対象にしようとしましたが、地頭はその介入を阻止しようとしました。
この対立は、検注が単なる土地調査ではなく支配権の確認や年貢徴収権を強化するための重要な手段であったことを示しています。

講義

中世荘園

中世荘園とは

中世荘園は11世紀後半から12世紀にかけての院政期に成立した天皇家や摂関家、有力寺社の私有地です。
上皇や女院、摂関などの権力者が大規模な寺院を造営する際に、その運営や経済的基盤を確保するために全国各地に設けました。

中世荘園の特徴

中世荘園の特徴として、領域型荘園であることが挙げられます。
中世荘園は耕地や集落、山野河海を含むひとまとまりの領域を有していました。
これによって荘園の内部で人々の生活を完結させることが可能になったため荘園の独立性が高まりました。

また、荘園領主は「不輸・不入の権」という国衙(地方行政機関)による課税や検査を拒否する権利を有していました。
「不入の権」は国衙が派遣する検田使(課税のために土地を調査する役人)や追捕使(警察権を行使する役人)の立ち入りを拒否する権限であり、これにより荘園は国衙支配から半ば独立した状態を保つことができました。
これにより荘園は国衙領(公領)と区別され、独立した行政区画の性格を持つようになりました。

中世荘園の成立経緯

中世荘園の成立過程では、私領の寄進と立荘という重要なプロセスがありました。
荘園の基盤となったのは中下級貴族や在地の有力者が開発した私領でしたが、延久の荘園整理以降、これらの私領の維持は不安定な状況にありました。
そこで、彼らは自らの私領を上皇や女院、摂関家などの有力者に寄進し、彼らの保護下に入ることで私領の存続を図りました。

この際、天皇家や有力寺社は中下級貴族や地方の有力者を通じて寄進を受け、国衙の承認を得ながら荘園を設立しました。
この過程で必要となった手続きが「立荘(立券荘号)」です。
院庁や摂関家政所から発行された文書(院庁下文や政所下文)をもとに受領に立券が命じられ、国衙の在庁官人らが立ち会いながら荘園の境界を確定させました。
これにより、荘園が正式に設立されて荘園領主はその領域に対する支配権を確立しました。

中世荘園の経営の仕組み

中世荘園では、天皇家や上級貴族、有力寺社が本家と呼ばれる荘園の所有者として支配を行いました。
本家の所有する荘園は中下級貴族に管理を委ねられ、彼らは領家と呼ばれました。
本家と領家を総称して荘園領主とし、実際に支配権を握るものを本所と称しました。

現地の荘園経営組織は荘家と呼ばれ、領家から派遣された預所がその運営を担いました。
預所の下には在地の有力者である下司や公文などの荘官が配置され、彼らが荘園の実務を遂行しました。
荘官たちは荘園領主から資本を提供され、土地開発や灌漑施設の整備といった勧農事業に取り組みました。

また、田堵などの現地農民を名主に任じ、彼らを通じて年貢・公事・夫役を納入させる仕組みが整えられました。
名主のもとでは、作人と呼ばれる農民が田畑を耕作していました。

このように、荘園は本家・領家・預所・下司や公文・名主といった階層構造によって支えられ、荘園領主の支配のもとで管理・運営されていました。

この経営体制は単に農業生産を行うだけでなく、荘園領主に仕える中下級貴族や在地有力者が中央政界と結びつくことを強化し、地域の経済や政治にも大きな影響を与えるものでした。

地頭

地頭は鎌倉幕府において将軍が任命した役職で、荘園や公領(国衙領)に設置されました。
地頭は元々開発領主や荘官の地位にあった武士たちが多く、特に東国御家人がその役割を担いました。
地頭の設置は当初、平家没官領や謀反人の所領に限定されていましたが承久の乱後には西国にも広がり、全国的にその数は数千人に達したと言われています。

地頭の主な職務は以下のとおりです。

  • 名主などから年貢を徴収し、荘園領主や国司に年貢を納入すること
  • 土地を管理すること
  • 治安維持
  • 勧農を行うこと(土地開発や灌漑施設の整備などを行うこと)

地頭の荘園侵略

地頭による荘園侵略は鎌倉時代の荘園制度に大きな影響を与えました。
鎌倉幕府の御家人である地頭は荘園領主の管理下で年貢を徴収し、土地の治安を維持する任務を負っていました。
しかし、地頭の独立性が強まるにつれて年貢の未納や土地の押領といった非法行為が横行し、荘園領主との対立が深刻化しました。

特に承久の乱(1221年)以降に東国の御家人が西国にも地頭として派遣されて幕府の支配力が全国に及ぶようになると地域ごとの土地慣行の違いも混乱を生み、地頭と荘園領主の争いが頻発しました。
この対立を解決するために、幕府は「地頭請」や「下地中分」といった施策を導入しました。

地頭請

地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を任せて一定額の年貢納入を請け負わせる制度です。
これにより地頭が年貢の徴収と管理を一手に引き受けました。

下地中分

下地中分は荘園領主と地頭が荘園の土地や年貢徴収権を折半する制度です。
地頭が荘園領主と同等の立場で土地を支配できるようになりました。
この制度によって武士の土地支配が進み、地頭は在地領主としての地位を確立していきました。

これにより、荘園制社会は荘園と国衙領(公領)から成る従来の「荘園公領制」から武家領と本所一円地・寺社本所領が並立する体制へと変わり、地頭の支配力が強化されました。

地頭請や下地中分による土地支配の進展は、武士階級が地方での権力を固める過程を象徴する出来事となりました。

解答例

地頭との対立があったため土地の支配者が自分であると示した。また、地頭が開発した田地を検注することで年貢の額が増えた。
(58文字)

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