「文章経国思想の内容と影響について知りたい」
「9世紀後半に藤原北家が摂関政治を開始した経緯を整理したい」
「9世紀後半に幼帝が即位した背景を知りたい」
2021年の東大日本史第1問では、「奈良時代以来続いてきた皇位継承をめぐるクーデターや争いが9世紀後半になるとみられなくなり、安定した体制が成立した背景にある変化」について5行(約150字)以内で説明する問題が出題されました。
この記事では、以下のポイントを中心に解説します。
- 9世紀前半に嵯峨天皇が行った政治改革
- 9世紀後半に顕著となった官僚機構の整備とその影響
- 外戚としての藤原北家の台頭と摂関政治の始まり
9世紀の政治史について、前半と後半の変化を整理しながら安定した体制がいかにして確立されたかを解説します。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(1)
皇太子恒貞親王を奉じようとする謀反
これは、842年に起きた承和の変を指しています。
承和の変は藤原北家が文人官僚を排斥し、天皇の外戚として政治権力を握るきっかけとなった事件です。
藤原良房が恒貞親王を排除し、自らの外孫である道康親王(のちの文徳天皇)の即位を推し進めることで藤原氏の外戚としての地位を確立しました。
以後皇位は、直系で継承されていく
承和の変以降、皇位は天皇の直系の子孫による継承が行われるようになりました。
そして、これが皇位継承の安定につながりました。
文章(2)
学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てていく
9世紀前半、嵯峨天皇や淳和天皇が自身の個人的な判断で教養や政務能力の高い文人官僚を公卿に抜擢しました。
これにより、天皇個人の判断能力に依存する政治体制が成り立っていました。
文人官僚が政治の中心となり、文化的教養が重視される文章経国思想が広まりました。
文人官僚はその勢力を失っていき、太政官の中枢は嵯峨源氏と藤原北家で占められるようになった
9世紀後半に入ると文人官僚の勢力が弱まり、代わって藤原北家や嵯峨源氏が太政官の中枢を占めるようになりました。
文人官僚は次第に政界から排除され、天皇の血縁や姻戚関係に基づく藤原北家や嵯峨源氏が国政を主導する体制へと移行していきました。
この変化が、皇位継承争いが減少して安定した政治体制の確立に寄与しました。
文章(3)
官僚機構の整備によって天皇がその場に臨まなくても支障のない体制になった
9世紀後半、官僚機構の整備が進んで天皇が直接国政を指揮しなくても政務が円滑に運営されるようになりました。
この整備により、天皇個人の政務能力や判断に依存しない政治体制が確立されました。
そのため、天皇がその場にいなくても国の運営に支障をきたすことがなくなりました。
有力氏族は子弟のための教育施設を設けた
官僚機構が整備されると、大学別曹と呼ばれる有力氏族が子弟の教育を行うための施設が設立されました。
これにより、有力氏族は学問や教養を通じて優秀な人材を育成して政治における地位を安定させる仕組みを整えました。
文章(4)
清和天皇はわずか9歳で即位
9歳という幼少の天皇が即位した背景には、天皇の年齢や資質・能力に関係なく政治が運営できるようになった体制の整備があります。
これにより、天皇が幼い場合でも政務を滞りなく進めることが可能となり、天皇個人の資質に依存しない国政運営が確立されました。
このような体制は、摂関政治の基盤を形成することとなりました。
太政大臣の藤原良房が実質的に摂政となった/藤原基経を摂政に任じ
9世紀後半には藤原氏が天皇の政務を代行するようになり、藤原良房が実質的に摂政となりました。
良房の後には藤原基経が正式に摂政に任じられ、摂関政治の基盤が築かれました。
天皇が直接政治権限を行使することなく、摂政・関白といった役職が天皇を補佐または代行する形で政治が行われる体制が確立しました。
この摂関政治により皇位継承や国政の安定が図られ、9世紀後半から10世紀中頃にかけて安定した体制が確立されました。
文章(5)
法典編纂が進められた
9世紀後半には、朝廷の法典編纂が進められ、年中行事や政務遂行が円滑に行えるようになりました。
これにより、貴族の役割が定められ、貴族を主体とした秩序が確立されました。
朝廷の儀式の唐風化
この時期、朝廷の儀式は中国の「礼」に基づいて整備され、唐風の影響を強く受けた儀礼体系が確立されました。
この過程で天皇を支える神話的な力は次第に失われ、天皇の宗教的・霊的な存在としての役割は減少していきました。
天皇不在でも政務が機能
法典編纂と儀礼の整備によって、天皇が政治に直接関与しなくても国政が運営できる体制が整いました。
天皇が幼少であっても、あるいは天皇がいなくても政務が遂行できるシステムが形成され、実質的に天皇の存在に依存しない政権運営が可能となりました。
こうした制度的な整備が、9世紀後半に皇位継承をめぐるクーデターや争いが減少し、安定した体制が成立する背景となりました。
講義
9世紀前半の政治:嵯峨天皇による天皇権力の強化
嵯峨天皇
嵯峨天皇は桓武天皇の皇子で、平城天皇の弟にあたります。
9世紀前半の政治において重要な役割を果たしました。
彼の治世では、天皇権力の強化が目立ち、その目的のために法制の整備と改革を行いました。
平城上皇と嵯峨天皇が対立し、嵯峨天皇が勝利した事件である平城上皇の変(810年)により太上天皇の政治的権限は大きく後退し、天皇に対する政治的権力の集中が進んで嵯峨天皇が政治を主導する体制が築かれました。
9世紀前半は天皇が自らの個人的な判断に基づいて政治的な意思決定を行い、公卿も自ら選定する時代となりました。
天皇との個人的な結びつきが貴族の地位を左右し、次のような要素でその結びつきが評価されました。
- 文人としての教養:漢詩文や儒学的教養を持つ人物が重用されました。
- 官吏としての政務能力:政治的な能力に優れた者が昇進しました。
- 天皇の父方の身内:天皇の近親者としての地位が影響力を持ちました。
- 天皇の母方の身内:外戚としてのつながりが権力の重要な要素となりました。
このように、嵯峨天皇の政治は個人的な信頼関係を軸にした体制でした。
この体制は、後に藤原北家が外戚として力を持つ礎を築いたといえます。
令外官の新設
嵯峨天皇による政治改革の中で重要な役割を果たしたのが、天皇直属の「令外官」の新設です。
令外官とは、律令制度には規定されていない新たな官職です。
嵯峨天皇はこれを通じて天皇の権力をさらに強化しました。
蔵人頭
蔵人頭は天皇の命令を太政官に伝える役割を担った官職であり、天皇の意思を円滑に伝えるための秘書官的な存在でした。
彼らは天皇の信任を受けて機密事項を扱い、政治の中枢に関わる重要な役割を果たしました。
特に機密文書を扱い、天皇の意思決定に関する情報を管理する役割があったため天皇の意思伝達や太政官との連携を確保する役割を果たしました。
蔵人頭の設置によって、天皇の政治的影響力が強化され、貴族社会の中でのリーダーシップを確立することができました。
検非違使
検非違使は京の治安維持を担う重要な官職で、警察権や裁判権を持つ強力な役職でした。
検非違使の設置によって、天皇は都における治安を確保し、犯罪の取り締まりや裁判を天皇の意向に基づいて実行することができるようになりました。
この官職の設置により京の治安が安定し、嵯峨天皇の政治基盤がさらに強固なものとなりました。
法制の整備
嵯峨天皇による法制の整備は律令政治の安定と運用を強化するための重要な改革の一環でした。
その中でも、弘仁格式の編纂が特に注目されます。
弘仁格式
嵯峨天皇は、唐の制度に倣い律令の施行に必要な補足・修正を加える「格」と律令や格の具体的な施行細則を定めた「式」を編纂しました。
これらの法令集は律令制度が社会の変化に対応できるようにするためのものです。
律令制度が日本に導入されてから時間が経ち、社会の実情と律令法との間に乖離が生じていたため社会に即した法令の整備が必要になったのです。
この法典の整備によって貴族や官人が職務や儀礼を遂行する際の基準や手続きが定められ、職務の明確化と秩序の維持が図られました。
社会的に重要な儀礼や祭祀の実施方法も定型化され、律令体制を現実の社会運営に適応させるための法制が整備されました。
格と式の役割
- 格:律令を補足・修正する法令。社会の変化に応じて律令を現実に合わせるための手段でした。
- 式:律令や格を具体的にどのように運用するかを定めた施行細則。
現実に即し、施行細則の定められた法が運用されることで官僚や貴族が円滑に行政業務や儀礼を進めることができるようになりました。
文章経国思想の広まりと影響
文章経国思想は、漢詩文の教養を政治や統治に活かすことを重視する思想です。
平安時代前期に唐風文化が日本に浸透する中で広まりました。
文章経国思想は日本における政治と文化のあり方を大きく変え、漢文学や儒教的教養を備えた官僚たちが国政を主導する新たな時代を切り開きました。
文章経国思想と官僚制度
9世紀前半、嵯峨天皇や淳和天皇は、家柄にとらわれず個々の能力を重視して官僚を信任し、太政官の公卿(高官)に任用しました。
儒教的な知識や漢詩文の教養のある人物が文人官僚として出世したのです。
これにより、天皇の直接的な政治力に依存せずに官僚機構が自主的に機能するようになり、政治は教養ある官僚たちによって進められるようになりました。
この流れは、天皇の神話的な権威や霊的な力が次第に薄れて天皇個人の能力ではなく官僚制度による統治が安定する土台となっていきました。
教育機関としての大学と紀伝道の重視
文章経国思想に基づき、大学での官僚教育が盛んになり、官僚や貴族が儒教的な学識と漢詩文の教養を学ぶようになりました。
その教育は明経道(儒教的教養を学ぶ)や紀伝道(中国の歴史・文学を学ぶ)といった学問として発展しました。
承和の変
842年に起こった承和の変は、嵯峨上皇が信任を寄せていた藤原良房が政界で権力を握るきっかけとなった事件です。
この事件では、嵯峨上皇の死後に当時の皇太子恒貞親王派の橘逸勢・伴健岑らが反乱を計画したとして配流されました。
これを機に藤原北家は天皇の外戚(母方の親族)としての地位を確立し、他の氏族を排除して権力を強化しました。
その結果、文人としての教養や官吏としての政務能力で出世していた貴族たちの勢力は次第に後退しました。
9世紀後半の政治
9世紀後半は天皇権力が安定化した時代とされています。
嵯峨天皇直系による皇位継承
嵯峨天皇の直系による皇位継承の原則が確立されると、天皇家の外戚である藤原北家や賜姓皇族である嵯峨源氏といった天皇の親族が政治的権力を握るようになりました。
官僚機構の整備
9世紀後半に進んだ官僚機構の整備により、天皇個人の政治的判断が求められる機会が減少しました。
天皇が政務の現場に直接関与しなくても国政が円滑に運営できる仕組みが確立され、天皇不在時でも政治が機能するようになったのです。
この仕組みの整備は、天皇個人の政務能力やリーダーシップに依存することなく、安定した政治運営を可能にしました。
藤原氏や源氏の対応
藤原氏や源氏などの有力貴族は官僚制の強化に適応しました。
彼らは官僚として律令政治を担うために必要な教養である漢文学の知識を重視し、子弟たちを教育するために大学別曹を設置しました。
これにより、官僚としての能力を高めて政権運営を支える人材を育成する体制を整えたのです。
例として、藤原氏は勧学院を設置して一族の子弟に教育を施しました。
法制の整備と儀礼の唐風化
9世紀後半にも律令の修正法である「格」や律令の施行細則である「式」の編纂が進められ、律令政治が当時の日本社会に適応できる形で整備されました。
この法制整備は天皇を中心とする国家体制を強化しつつ、貴族が政務を遂行するための指針を明確化しました。
同時に、儀礼においても唐風化が進行しました。
中国の礼を基礎とした儀式が導入され、それに伴い、日本の天皇を含む貴族社会の制度や儀式も唐の影響を受けて制度化・定型化されていきました。
これにより、天皇やヤマト政権以来の豪族を支えてきた神話的・霊的な力が次第に薄れ、天皇の権威も神話的な要素ではなく、唐の礼を基盤とした儀礼や法制によって支えられるようになりました。
天皇の宗教的な力が必要とされなくなり、唐風の制度や儀礼による支配が強化されることで天皇の個人的な力に依存しない安定した政治運営が可能となり、天皇が直接関与せずとも国政が機能する体制が整備されました。
さらに、朝廷の年中行事としての儀式の定型化は貴族の役割を定め、貴族が主体となって国政を運営する秩序を形成しました。
藤原北家の台頭
承和の変(842年)は、藤原北家の権力強化の起点となる重要な事件でした。
この事件により文人官僚が排除され、天皇の身内である貴族・皇族が朝廷の中心に立つこととなります。
そのなかで、特に外戚としての地位を確立した藤原北家が皇位継承を主導する存在となったことで皇位継承をめぐるクーデターや争いが見られなくなりました。
藤原良房は清和天皇の外祖父という立場を活かし、太政大臣という最高官職に就任して実質的な摂政として幼少の清和天皇を補佐して政治の実権を握りました。
この結果、天皇の年齢や能力に依存せず、外戚である藤原北家が摂政として政治を行う仕組みが確立されました。
これにより、幼帝が即位しても政治が混乱せずに安定した国政運営が可能となり、摂関政治の基盤が形成されました。
解答例
天皇から個人的信任を得ていた文人官僚が排斥されて藤原北家が台頭し、嵯峨天皇直系の皇統が続くようになった。大学別曹で学問を学んだ外戚の藤原氏や賜姓皇族など天皇の身内主導で政治が安定した。格式や儀礼の整備により官僚機構が機能して天皇個人の資質に依存しない体制が整い、幼帝の即位も可能な体制となった。
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