「大戦景気のときに重化学工業はどのように発展したの?」
「1910年代・20年代に教育がどのように充実していったのかを知りたい」
「1910年代・20年代に労働者の労働条件にどのような変化があったのかを知りたい」
2022年の東大日本史第4問Bでは、「第一次世界大戦以後の日本で、労働生産性の上昇を加速させた要因」について具体的に3行(約90字)以内で説明する問題が出題されました。
この記事では、その解答に必要な知識を以下のポイントに基づいて解説します。
- 大戦景気における重化学工業の成長
- 1910年代・20年代の教育制度の充実
- 労働者保護のための法律整備と労働運動の変化
これらの要素がどのように労働生産性向上に寄与したかを、具体的に解説していきます。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
リード文で言及された労働生産性上昇要因について
機械など、働き手1人当たり資本設備の増加による部分
資本集約型産業である重化学工業が発展したことで、1人当たりの資本設備が増加しました。
教育による労働の質の向上
義務教育の普及や高等教育の拡充により、労働者の知識や技術力が向上しました。
技術の進歩
電力の普及によって産業の動力源が蒸気から電力へとシフトしました。
これにより生産性が飛躍的に向上し、多くの産業で効率化が進みました。
財産権を保護する法などの制度
工場法が労働者の保護を目的として整備され、労働環境の改善が進みました。
これにより労働者の権利が保障され、労働意欲の向上が図られました。
図
労働生産性の上昇率は1913年から1926年にかけて3.0%前後となり、第一次世界大戦前に比べて急速に向上しています。
機械など、働き手1人当たりの資本設備の増加
1913~1926年の労働生産性上昇率は1885~1899年の2倍以上となっています。
その他要因
1899~1913年と比べると、1913~1926年の労働生産性の上昇率は2倍近くになっています。
講義
大戦景気
1915年から1918年にかけて、日本は第一次世界大戦の影響で未曾有の好景気を迎えました。
ヨーロッパの交戦国が軍需物資を輸出できなくなったことを契機に、日本はアメリカやアジア市場に向けて輸出を急増させました。
特に、以下の産業が急成長しました。
- 製糸業:生糸のアメリカ市場への輸出増加
- 綿織物:中国などアジア市場への輸出の増加
- 鉄鋼業:八幡製鉄所の拡充や鞍山製鉄所の設立による発展
- 海運業・造船業:世界的な船舶不足を背景に成長
- 化学工業:ドイツ等からの輸入が途絶えたために薬品・染料・肥料などの国産化に成功
こうして重化学工業が大きく発展し、1919年には工業生産額が農業生産額を上回りました。
その後、日本経済は重化学工業中心の産業構造に転換し、1930年代後半の満州事変以降は軍需拡大の影響でさらなる成長を遂げました。
重化学工業は軽工業よりも遥かに多額の資本設備を要し、また高度な技術が導入されたので労働生産性が向上しました。
電力の普及
日露戦争後から大戦景気の時期にかけて、電力事業が発達しました。
- 水力発電事業の展開:猪苗代水力発電所の完成
- 長距離送電の成功:猪苗代・東京間の送電
- 電灯の農村部への普及
- 工業動力源の蒸気から電力への移行
これらの技術革新により、労働生産性の大幅な向上が実現しました。
電力の普及は工業の機械化を後押しし、資本集約型産業のさらなる発展につながりました。
教育の発展
義務教育の就学率向上
1910年前後に義務教育が6年制として確立され、義務教育の就学率はほぼ100%に達しました。
男女の就学率格差がほとんどなくなり、教育の機会均等が実現しました。
この義務教育の普及は基礎的な読み書きや計算の能力を国民全体に浸透させ、労働者の能力向上をもたらしました。結果として、労働生産性の向上に大きく寄与しました。
中等教育の普及
1920年代には中学校の増設が進み、中等教育の普及が進展しました。
中学校の生徒数は急増し、より多くの若者が基礎以上の教育を受けられるようになりました。
これにより労働者のスキルや知識のレベルが向上し、産業界においても高度な技能を持つ労働者の確保が容易になりました。
高等教育の拡充
1918年に原敬内閣が公布した大学令により、帝国大学に加えて公立大学や私立大学の設立が認められて大学数が急増しました。
大学令の施行は高等教育の普及と拡充を促進しました。
高等女学校の増設も進み、男女を問わず高等教育を受けられる環境が整いました。
高等教育の拡充によって、商社や銀行などで専門的知識や技術をもつサラリーマンなどの新中間層が増加しました。高度な教育を受けた労働者が知的・管理的な労働に従事することで産業の発展に貢献し、労働生産性のさらなる向上を実現しました。
労働者の権利を守る法制度等の整備
工場法の制定
工場法は、労働者保護のために制定された日本初の法律です。
1911年に公布され、1916年に施行されました。
この法律は労働条件の改善を図るために、事業主に対して以下のような具体的な義務を課しました。
- 16歳未満の少年と女性の労働時間を12時間に制限
- 少年・女性の深夜労働を禁止
- 12歳未満の児童の雇用を禁止
このような規制により、特に女性や未成年労働者が過酷な条件で働かされることが減少しました。
しかし、適用範囲が15人以上の工場に限られたことや監督制度の不備から違反行為が摘発されにくいという問題もありました。
それでも、労働者保護が法律で明文化されたことにより労働者の権利意識が向上し、労働意欲の向上に寄与しました。
この変化は、労働生産性の上昇をもたらす一因となりました。
労働運動の活発化
大戦景気により賃金が上昇したものの、物価の急騰により実質賃金は低下して労働者の生活は依然として厳しいものでした。
この状況を背景に、労働者が賃金の引き上げや労働条件の改善を求める労働争議が増加しました。
この時期、鈴木文治らが友愛会を結成し、労働者の地位改善を目指して活動を展開しました。
友愛会は当初、労使協調を目指す穏健な運動でしたが、1919年には大日本労働総同盟友愛会、1921年には日本労働総同盟と改称し、労働組合として階級闘争を重視する方向へと急進化していきました。
労働運動が活発化するなかで労働条件の改善が進み、労働者の労働意欲の向上が実現しました。
これが労働生産性の向上に寄与しました。
解答例
大戦景気で多額の設備投資を要する重化学工業が発展し、動力源が蒸気機関から電気へ転換した。大学令などで高等教育も拡充されて都市で新中間層が増加した。工場法で労働者が保護された。
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