「1880年代後半から進展した軽工業の産業革命の詳細を知りたい。」
「日本に義務教育が普及するまでの過程を整理したい。」
「大日本帝国憲法で財産権などの人権がどのように保護されたのかを知りたい。」
2022年の東大日本史第4問Aでは、「1880年代半ばから1890年代における労働生産性の上昇をもたらした要因は何か」について具体的に3行(約90字)以内で説明する問題が出題されました。
この記事では、以下の内容を中心に解説します。
- 1880年代後半からの軽工業の産業革命
- 学制からはじまる義務教育の普及過程
- 大日本帝国憲法における財産権などの人権の保護
これらの要因が労働生産性の向上にどのように寄与したかを詳しく説明します。
ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
リード文
労働生産性の上昇要因として、
- 機械などの1人当たり資本設備の増加
- 教育による労働の質の向上
- 技術の進歩
- 財産権を保護する法などの整備
が挙げられています。
労働生産性上昇率の推移を示した図
1885年から1899年の上昇率は1.8%前後で、そのほとんどは「教育」「技術」「財産権を保護する法制度の整備」などの要因によるものです。
史料(『学問のすゝめ』初編)
専ら勤しむべきは人間普通日用に近き実学なり
実学つまり生活に直接役立つ知識や技術を学ぶことが奨励されています。
譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い
実学の例として読み書きや算盤といったものが挙げられています。
これにより、労働者の基礎的なスキルが向上し、生産性の上昇につながることがわかります。
人たる者は貴賤上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得
身分の区別なく国民全てに実学を学ばせることを提唱している点は重要です。
これにより明治政府が義務教育制度を導入すると身分に関係なく教育を受ける権利が認められ、結果として労働者全体の能力が底上げされました。
義務教育の普及は国民の識字率や算術能力を向上させ、経済的な成長にも寄与したと考えられます。
史料(『学問のすゝめ』六編)
固く政府の約束を守りその法に従って保護を受くることなり
福沢諭吉が政府と国民との契約関係を強調しています。
具体的には国民が義務を果たすことで政府からの保護や権利の保障を受けることができるとされています。
これにより国民は自らの役割、特に労働義務を果たすことで国家から財産権やその他の権利を保障されるという信頼が生まれます。
このような社会契約的な考え方は労働意欲の向上に直結します。
国民が労働を通じて権利が保障されるという認識を持つことで、個々の労働者が自身の生産性を高めることに積極的になります。
特に、財産権の保護や法整備が進むことで労働者の安心感が増し、経済活動が活発化しました。
この考えは大日本帝国憲法の制定に反映されました。
憲法では、国民が「臣民」として法律の範囲内で財産権などの権利を享受することが明記され、法の支配の下での安定した権利保障が実現しました。
このように、法的に保障された財産権の確立は労働者にとってのモチベーションを高め、結果として労働生産性の向上につながったと考えられます。
講義
軽工業の産業革命
1880年代前半の背景
1880年代、松方デフレと呼ばれる経済政策の影響を受けて自作農が大量に没落しました。
この結果、一部の地主が土地を集積し、寄生地主制が進展しました。
それにより地主が富を蓄積しました。
また、没落した農民が職を求めて都市部へと流入したため都市労働力の供給が増加しました。
資本主義の発展に必要な資本と労働力の基盤が形成されました。
また、明治政府は官営事業の多くを民間に払い下げる政策を実施しました。
この官業払い下げにより近代産業の発展が促進され、民間企業による事業が成長しました。
特に、鉄道・紡績・鉱業の分野が活発化しました。
1880年代後半の産業革命の進展
1880年代後半、日本における産業革命は急速に進展しました。
特に、1886年から1889年にかけて、鉄道業や紡績業を中心に企業勃興(会社設立ブーム)が起こり、本格的な産業革命が始まりました。
この背景には、松方デフレの収束や銀兌換制度の確立による貨幣価値の安定、さらには金利の低下があり、これにより株式取引が活発化し、産業界が大いに盛り上がりました。
特に紡績業や製糸業などの軽工業が産業革命の主役となり、手工業から機械制生産へと急速に転換しました。
機械技術の進歩により生産規模が飛躍的に拡大し、綿糸や生糸などの生産量が増加しました。
紡績業
紡績業は綿花を原料とし綿糸を生産する工業であり、明治時代の日本における産業革命を象徴する重要な産業分野です。
1880年代後半の紡績業の発展は目覚ましく、国内で紡績会社の設立が相次ぎました。
これにより輸入した紡績機械や蒸気機関を用いた大規模な機械制生産が急速に増加し、手工業から工場制機械工業へと劇的な転換が進みました。
その結果、綿糸の生産高が大幅に増加して1890年には綿糸の国内生産量が輸入量を上回り、国内の需要を満たすことができるようになりました。
さらに1897年には日本の綿糸の輸出量が輸入量を上回り、紡績業は輸出産業としての役割を果たすまでに成長しました。
主に朝鮮や中国向けの輸出が拡大し、日本経済の基盤強化と国際競争力の向上に大きく寄与しました。
製糸業
製糸業は繭から生糸を生産する産業であり、幕末から明治時代にかけて日本の主要な輸出産業として経済を支える重要な分野でした。
明治時代初期には農村の家内工業として手動装置を使用した座繰製糸が主流でしたが、次第に欧米から輸入された機械を取り入れた器械製糸が導入され、技術革新が進みました。
この技術革新により生産効率が大幅に向上し、1894年には器械製糸による生産が座繰製糸を上回るようになりました。
これに伴い日本全国に大規模な製糸工場が建設され、製糸業は農村の家内工業から工場制へと移行していきました。製糸業は日本の近代化を象徴する産業であり、生糸は主要な輸出品として日本経済を支え続けました。
なお、器械製糸による生糸の生産は技術的に高度であり熟練した手先の技術が必要とされていました。
このため、労働者の教育や技術向上が求められました。
義務教育の普及
明治政府は近代国家の基盤を築くために教育制度の整備を重要視しました。
1872年に公布された学制では、フランスの制度を参考にした近代的な学校制度が採用され、「国民皆学」を理念に掲げて身分や性別に関係なく義務教育が提供されることを目指しました。
この方針は福沢諭吉の『学問のすゝめ』に影響を受けたもので、立身出世と実学重視の教育内容が強調されました。特に実学(読み書きや算盤など)が広く奨励され、国民の生活に役立つ知識が提供されるようになりました。
1886年の学校令では帝国大学を頂点とした体系的な教育制度が整備され、初等教育としての小学校教育の普及が進みました。
1890年には小学校令が改正され、尋常小学校での3~4年間の義務教育が定められて義務教育の制度が全国に広がりました。
この制度の普及により国民全体の識字率や計算能力が向上しました。
1892年には男子の就学率が70%、女子の就学率が36%まで上昇しました。
このような初等教育の整備と普及は労働者の能力向上を促し、近代日本の労働生産性の上昇に大きく貢献しました。教育を通じて農民や都市の工場労働者に基礎的な知識や技術が浸透し、日本の経済発展を支える重要な要因となりました。
憲法・法制度の確立
明治政府は近代国家の基盤として法治国家を整備するために、憲法や各種法制度を確立しました。
特に、1889年に発布された大日本帝国憲法は近代的な法治国家としての体制を整える大きな転機となりました。
この憲法では国民は天皇の臣民とされつつも、所有権の不可侵や言論の自由など個人の権利が法律の範囲内で保障されました。
大日本帝国憲法における財産権の保障は特に重要な要素でありました。
財産権は個人が財産を所有し、その財産的利益を享受する権利です。
この権利が法的に保護されることで、国民は自由に財産を利用・管理できるようになり、経済活動の基盤が強固になりました。
明治時代の近代化を支える重要な法的枠組みとして、財産権の確立は日本の経済成長や産業発展に大きく貢献したのです。
このように大日本帝国憲法は近代的な法制度の一環として個人の権利保障を打ち出し、国家全体の法的な安定とともに国民の経済活動を支える重要な役割を果たしました。
解答例
紡績業・製糸業で産業革命が進展し、機械や器械での生産が増加した。また身分の区別なく読み書きなど実学重視の教育が普及した。そして大日本帝国憲法で財産権が法律の範囲内で保護された。
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