【東大日本史2022】元禄時代・徳川綱吉の治世下で怪我人に手厚い対応がとられた背景|第3問B解説

東大日本史2022第3問設問B元禄時代・徳川綱吉の治世下で怪我人に手厚い対応がとられた背景 日本史

「元禄時代の政治の特徴を知りたい。」
「徳川綱吉が文治主義の徹底のために重視したものを整理してほしい。」
「生類憐みの令や服忌令の内容や影響を知りたい。」

2022年の東大日本史第3問Bでは、「藩邸の堀に落ちた老女に藩邸の人たちが手厚い対応をするようになった背景」について、資料を踏まえて2行(約60字)以内で説明する問題が出題されました。

この記事では、以下の内容を中心に解説します。

  • 元禄時代の政治の特徴
  • 文治主義徹底のために徳川綱吉が重視した政策
  • 生類憐みの令や服忌令の内容とその影響

元禄時代の徳川綱吉の政治姿勢を理解し、文治主義に基づいた政策の目的や背景を詳しく説明しています。
ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(2)

1675年

元禄時代になる直前(4代将軍徳川家綱期)の記述が取り上げられています。

死んだ乞食を捨てた/江戸ではそういうことが時々ある

江戸で乞食の死体が捨てられていたという状況が示されています。
このことから、元禄時代より前は死体に対して人々が比較的粗雑な扱いをしていたことが読み取れます。
当時の社会では死者や社会的弱者に対する人権意識や配慮が十分ではなく、死体が適切に処理されずに捨てられるようなことが時折起こっていたのです。

文章(3)

1687年/1689年

ここでは徳川綱吉の治世、すなわち元禄時代に関する記述が取り上げられています。

鉄砲をすべて領主や代官に取りあげさせた

この時期には、領主や代官から鉄砲を取り上げる政策が実施されました。
武器を制限することで殺生を避ける風潮を広めようとしたことがわかります。

人間や家畜の命に関わるような場合には鉄砲を使ってよい

単に武器を没収するだけでなく、生命を守るためには鉄砲を使用してもよいという例外も設けられていました。
家畜や人間の命を大事にする意識が広がっていたことがわかります。

文章(4)

1696年

ここでも徳川綱吉の治世、すなわち元禄時代に関する記述が取り上げられています。

藩邸の堀に老女が落ちた/医師に容体を診察させた/着替えさせ食事を与え/できるだけ介抱

藩邸の堀に落ちた老女に対する手厚い介抱が描かれています。
この出来事から、元禄時代における民衆の生命を尊重する姿勢の広がりが確認できます。
生類憐みの令の発布による生命尊重の理念の普及が読み取れるエピソードです。
また、儒学が重視されたことによって武士が民衆に対して仁徳に基づいた政治である仁政を実践するよう求められたことが反映されています。

さらに、服忌令による影響も考えられます。
この法令によって、死や血を「穢れ」とみなし、それを避ける風潮が社会全体に広まりました。
したがって藩邸で人が死ぬことが忌避されたため、堀に落ちた老女が亡くなることを防ぐための対応としてこの手厚い対応が行われた可能性があります。

講義

元禄時代の政治の特徴

元禄時代の政治は5代将軍徳川綱吉の治世下で特徴的な政策が実施された時代でした。
この時代の政治の中心的な目的は、戦国時代の混乱を終結させて平和と安定を確立することでした。
幕府や諸藩は領内の統治を強化し、安定した秩序を維持するためのさまざまな政策を展開しました。
以下に、元禄時代の政治の主要な特徴をまとめます。

文治主義

綱吉の治世では武力による支配である武断政治ではなく、儒教的な道徳や礼儀を重視する文治主義が推進されました。
これは法や儀礼、道徳教育を通じて秩序と平和を維持しようとする統治方針です。
特に儒教の教えに基づいた徳治主義が強調され、武士階級に礼儀や忠孝を徹底させることが重要視されました。

礼儀と忠孝の重視

元禄時代には日常生活における礼儀や忠孝の重要性が広く強調されました。
1683年に制定された天和の武家諸法度には武士階級が従うべき礼儀や忠孝の規範が明記され、社会全体での道徳的な秩序の確立が図られました。

天皇・朝廷の権威の利用

徳川綱吉は平和を維持し幕府の権威を強化するために、天皇や朝廷の権威を積極的に活用しました。
戦国時代の混乱で中断されていた多くの朝廷儀式を復活させ、これによって朝廷と将軍の権威を高める狙いがありました。
征夷大将軍を任命する天皇の権威が高まれば将軍の権威も高まると考えたからです。
具体的には、天皇即位の際の重要な儀式である大嘗会や京都の賀茂神社で行われる賀茂葵祭などを再興しました。

儒学の重視

徳川綱吉は儒学の特に朱子学を重視し、幕府統治の理念として採用しました。
朱子学は上下の身分秩序や忠孝・礼儀を重んじる思想であり、封建社会における安定した社会秩序を維持するための理論的支柱として機能しました。
綱吉は儒学の教えを通じて民衆の教化を進め、社会全体に倫理的規範を浸透させることを目指しました。

その一環として孔子を祀る湯島聖堂を建立し、儒学教育の拠点を設けました。
また、江戸幕府に儒者として仕えていた林家の林鳳岡を大学頭に任命し、儒教と仏教の分離を進めるなど儒学者の社会的地位向上にも努めました。
このようにして林家を中心とした幕府の官学的な儒学政策が強化され、儒学が官学として幕府統治の基盤を支えることとなりました。

仏教の重視

綱吉は仏教にも力を入れていました。
彼は戦国時代末期に焼失していた東大寺大仏殿を再建し、そのために全国にわたって諸国高役金を課しました。
この税収は幕府領や大名領など全国規模で徴収され、寺社の再建に充てられました。
さらに護国寺や護持院などの寺院の造営を盛んに行いました。

生類憐みの令と服忌令

元禄時代の特徴的な政策が生類憐みの令です。
この法令は動物の生命を尊重し、殺生を避ける倫理を広めました。
動物だけでなく捨て子や病人の保護を含めて弱者への救済を重要視した政策でした。
これにより戦乱の時代の殺伐とした価値観を一掃し、生命を尊重する新たな道徳観が浸透しました。

また、服忌令によって「穢れ」を忌避する社会的意識も高まって死や血を嫌う風潮が広がりました。
この法令は喪に服す期間や死を穢れとみなして避ける風習を徹底させたものであり、戦国時代の武力を誇示する価値観からの大きな転換点となりました。

解答例

平和や秩序を重視する文治主義に基づき生命を尊重する生類憐みの令が出された。また、服忌令により死を忌む風潮が広がった。
(58文字)

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