「鎌倉時代の朝廷の経済基盤について知りたい。」
「両統迭立の経緯や影響を知りたい。」
「半済令の内容を知りたい。」
「室町時代の朝廷の経済基盤について知りたい。」
「応仁の乱が朝廷の経済基盤に与えた影響について知りたい。」
2022年の東大日本史第2問では、「戦国時代の3代の天皇が譲位を果たせなかった理由を、鎌倉時代以来の朝廷の経済基盤の変化と、室町幕府の対応を含めて5行(約150字)以内で述べよ。」という問題が出題されました。
この記事では、以下の内容について解説します。
- 鎌倉時代の朝廷の経済基盤
- 両統迭立の経緯とその影響
- 半済令の内容とその意義
- 室町時代の朝廷の経済基盤
- 応仁の乱が朝廷の経済基盤に与えた影響
鎌倉時代から戦国時代にかけての朝廷の経済基盤の変化を丁寧に解説し、東大の記述問題に適した答案の書き方を示していますので、ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(1)
皇統が分かれて両統迭立が行われると、(中略)上皇が5人も存在した。
皇統の分裂により、持明院統と大覚寺統が交互に皇位を継承する両統迭立が行われました。
この結果、複数の上皇が同時に存在するようになり、その生活を支えるために朝廷の経済負担が増大しました。
上皇たちの生活は、(中略)荘園群によって支えられていた。
鎌倉時代の朝廷の経済基盤は荘園であり、上皇たちの生活を支える重要な収入源となっていました。
皇統の分裂で上皇の数が増えたことで、朝廷の経済負担は増えました。
しかし、荘園の収益があったためこの増加した負担を賄うことができていたことがわかります。
荘園の安定した収益により、鎌倉時代の朝廷は比較的経済的な余裕を保っていました。
文章(2)
諸国の守護や武士による荘園公領への侵略
南北朝期の動乱により天皇家の所領や荘園が武士たちに侵略されるようになりました。
この時期、諸国の守護や武士が権力を強めるなかで荘園公領への侵略が進行し、これにより朝廷の経済基盤である荘園が次第に弱体化していったことがわかります。
南北朝の内乱が長引く中で、荘園領の支配権が大きく揺らぎ、朝廷の経済的な安定性が大きく損なわれました。
荘園領主の権益を半分は保全する
このような背景のなかで、室町幕府は荘園領主の権益を一定程度保護するための措置を講じました。
荘園の侵略が広がるなかで室町幕府は半済令を出し、荘園領主の権益を半分は保護する方針を示しました。
完全な侵略を防ぐことで朝廷の経済的困窮を和らげようとする幕府の意図が見て取れます。
天皇や院、摂関家などの所領については全面的に半済を禁止した。
室町幕府は天皇家や院、摂関家などの所領に対しては半済令の適用を全面的に禁止することで、特に皇室や有力貴族の経済基盤を守ろうとしました。
これは、幕府が朝廷の権威や経済基盤を一定程度保護しようとする姿勢を示しています。
文章(3)
即位にともなう大嘗祭などの経費
天皇が譲位し、新たな天皇が即位する際には大嘗祭などの儀式に多額の経費が必要となります。
これは朝廷にとって大きな経済的負担であり、実施には安定した経済基盤が必要不可欠です。
鎌倉時代にはこれらの儀式を支える経済基盤が荘園により確保されていましたが、時代が進むにつれその維持が難しくなっていきました。
平安時代後期から各国内の荘園公領に一律に賦課する一国平均役
平安時代後期から鎌倉時代にかけては、朝廷の経済基盤として一国平均役が各国の荘園や公領に一律に課されていました。
一国平均役は内裏の造営や国家的行事の際に必要な経費を賄うための税であり、これにより朝廷の経済活動が支えられていました。
しかし、時代が進むにつれて荘園の支配権が弱体化していくなかで徴収が困難となりました。
室町時代には幕府が段銭や棟別銭として守護に徴収させた
室町時代になると、朝廷の経済基盤は室町幕府が徴収する段銭や棟別銭といった税に依存するようになります。
段銭は田地に課せられる税で、棟別銭は家屋ごとに課される税であり、いずれも幕府が守護を通じて徴収しました。これにより朝廷は経済的自立を失い、幕府の支援なくしては成り立たない状況に陥りました。
この変化は、朝廷が経済的に幕府に依存する構造が固定化していったことを示しています。
文章(4)
1464年/2年後
この年代は応仁の乱直前にあたり、室町幕府の支配がまだ機能していた時期です。
上皇のための所領を設定するよう足利義政に求めた
天皇が譲位して上皇になる際には、その生活を支えるための所領が必要とされました。
室町幕府がこれを用意する役割を担っていたことから、幕府の支配力と財政的な支援が朝廷の運営に不可欠であったことがわかります。
幕府の経費負担で大嘗祭をおこなった
応仁の乱以前には、室町幕府が朝廷の大嘗祭などの儀式に必要な経費を負担していました。
これは幕府の支配力と経済力がある程度維持されていたためであり、朝廷が依然として儀式を行うことができていた背景を示しています。
これが室町時代最後の大嘗祭になった
応仁の乱後に室町幕府の権威が失墜し、経済的支援が途絶えたことで朝廷が行う儀式も停止せざるを得なくなりました。
即位に関する儀式の経費を負担できなくなったことは、天皇の譲位が実現しなかった理由の一つです。
応仁の乱後に室町幕府は権威と財政的支援能力を大きく失い、これにより朝廷の経済基盤も崩壊しました。
天皇が譲位して上皇となるためには所領や儀式の経費が不可欠でしたが、幕府の支援が途絶えたためにこれらが実現できなくなりました。
特に大嘗祭のような重要な儀式の停止は朝廷の権威の喪失を意味し、天皇の譲位が不可能になった背景を深く物語っています。
講義
鎌倉時代の朝廷の経済基盤
鎌倉時代の朝廷の経済基盤は主に天皇家や院が所有する荘園でした。
この時代の土地制度は「荘園公領制」と呼ばれ、荘園と公領が並立する形で構成されていました。
荘園公領制
- 荘園:天皇家や貴族、寺社などの権門が所有する私有地で、独自の支配権を持つ土地です。
- 公領:国家が直接支配する国衙領(こくがりょう)で、郡・郷・保といった行政区画で管理されていました。
この荘園公領制により、天皇家は経済的に自立しており、荘園からの収益を基盤として経済活動を行っていました。
天皇家の代表的な荘園
- 八条院領:鳥羽院とその皇后である美福門院が娘の八条院に譲渡した荘園群
- 長講堂領:後白河院が自らの持仏堂である長講堂の名義で集めた荘園群
これらは朝廷の重要な経済基盤でした。
一国平均役
一国平均役とは、内裏の造営や重要な国家的行事の経費を賄うために荘園・公領を問わず各国の土地に一律に課された税負担です。
荘園や公領に対して均等に賦課され、国司が徴収を行いました。
これにより、朝廷は大規模な事業を行う際の資金を確保していました。
両統迭立の経緯とその影響
承久の乱後、朝廷では上皇が院政を行い、治天の君として政治を主導する体制が続いていました。
この院政の認定と皇位の継承には、鎌倉幕府が深く関与し、影響力を持ちました。
皇統の分裂
後嵯峨天皇は北条泰時の後押しで即位し、後に後深草天皇に譲位して院政を始めました。
後深草天皇の弟である亀山天皇が続いて即位しましたが、後嵯峨上皇は院政の後継者を指名せずに亡くなりました。その結果、皇統は二つに分かれて後深草上皇の系統(持明院統)と亀山上皇の系統(大覚寺統)が対立を深めていきました。
両統迭立の成立
持明院統と大覚寺統は、天皇位の交代のたびにそれぞれの系統から天皇を出そうと幕府に働きかけました。
幕府はこの争いを調停するために両統が交互に天皇位に就く「両統迭立」を提案し、これが実施されることとなりました。
経済的対立
両統の対立は皇位だけでなく、膨大な皇室領荘園群の相続にも及びました。
荘園は天皇家の主要な経済基盤であり、この分裂により荘園の管理や収益が二分されることになりました。
具体的には、長講堂領が持明院統へ八条院領が大覚寺統へと分配されました。
南北朝時代への影響
この皇統の分裂は、後に南北朝時代へと発展しました。
持明院統は北朝、大覚寺統は南朝を形成し、長期間にわたる内乱の原因となりました。
幕府の調停策としての両統迭立は一時的な解決策に過ぎず、長期的には皇室の分裂と対立を助長することになったのです。
南北朝時代の朝廷の経済基盤
南北朝時代の朝廷の経済基盤は、南北朝の動乱によって深刻な打撃を受けました。
この動乱期には、荘官などを務める武士が「兵糧の調達」を名目に荘園や公領の年貢を横領する行為が頻発しました。
その結果、荘園や公領を支配していた公家や寺社の権限は大きく後退し、年貢の安定した収納が困難となりました。
半済令の発布
この混乱を背景に、室町幕府の初代将軍である足利尊氏は1352年に初めて半済令を発布しました。
これは、近江・美濃・尾張の3国の守護に対し、荘園内の年貢の半分を「兵粮料所」として守護が預かり、その米を現地の武士に配分する権利を与えるというものでした。
当初、この措置は上記の3国と一年間の期間限定とされていましたが、その後、半済令は全国的に拡大され、1368年には無期限で実施されることになりました。
この際には、年貢だけでなく土地の折半も認められました。
室町幕府の対応と影響
半済令によって守護は荘園や公領を事実上支配し、その年貢や土地を武士に分与することで自らの軍事力の強化を図るようになりました。
ただし、天皇や院、摂関家などの所領については全面的に半済が禁止されており、室町幕府がこれらの荘園を特別に保護しようとしていたことがわかります。
しかし、半済令の結果として武士による荘園の侵略が進み、多くの荘園は次第に支配権を失っていきました。
その影響は室町時代を通じてさらに拡大していくこととなります。
室町幕府の対応は皇室や摂関家の所領を守ろうとする意図があったものの、全体としては武士による荘園侵略を防ぎきれず、結果的に朝廷の経済基盤を脅かすこととなりました。
室町時代の朝廷の経済基盤
室町時代における朝廷の経済基盤は、以前の荘園に依拠する形から大きく変化しました。
天皇の即位や内裏の造営といった国家的行事の経費は主に室町幕府が徴収する税収によって賄われるようになりました。
応仁の乱以前の室町幕府は一定の支配力を維持して朝廷の財政を支える役割を果たしていました。
これにより朝廷は経済的に独立することができず、幕府の支援に強く依存する状況が続きました。
段銭と棟別銭
具体的には、段銭や棟別銭といった税が全国の守護を通じて徴収されました。
これらの税は平安時代後期に始まった一国平均役の流れを汲んだものであり、当時の公的な負担として全国に広く課されていました。
段銭
田地1段(約1反)ごとに課される税で、天皇即位や内裏の造営などの国家的行事に必要な経費を賄うために徴収されました。
守護が各地で徴収を担当し、その収入が朝廷の経済基盤となっていました。
棟別銭
家屋1棟ごとに課される税で、段銭と同様に必要に応じて徴収されました。
この税も守護によって集められ、朝廷の財政を支える重要な収入源となっていました。
応仁の乱以降の朝廷の経済基盤
1467年に勃発した応仁の乱は、室町幕府の権威を大きく揺るがしました。
この内乱は8代将軍足利義政の後継問題を発端に、義政の弟である足利義視と義政の妻日野富子が生んだ足利義尚との間で起きた相続争いが原因でした。
さらに幕府の実権を巡る細川勝元と山名持豊の対立や管領家の斯波氏・畠山氏の家督相続争いも加わり、全国的な戦乱に発展しました。
この戦乱は東軍と西軍に分かれ、11年間にわたって京都を中心に激しい戦闘が繰り広げられました。
応仁の乱の影響
応仁の乱によって室町幕府の権威は失墜し、全国各地での下剋上の風潮が強まりました。
戦乱により社会不安が広がり、幕府の支配体制が大きく揺らぐとともに各地の守護も没落していきました。
それに伴って幕府からの支援が絶たれたため朝廷の経済基盤も大きく弱体化しました。
また、これまで室町幕府がその維持に一定の役割を果たしてきた荘園公領制も応仁の乱によってさらに解体が進みました。
荘園領主である朝廷、公家、寺社の多くが集中していた京都が荒廃したため、所有する荘園への支配力も失われていきました。
結果として、朝廷はもはや独自の経済基盤を確保できなくなり、儀式や行事に必要な経費を捻出することも困難となりました。
このように、応仁の乱は幕府の力を大幅に低下させただけでなく朝廷の経済基盤をも壊滅的な状況に追い込みました。
特に、即位に伴う大嘗祭のような重要な儀式の遂行が不可能となり、天皇の譲位も滞る事態に至りました。
解答例
鎌倉時代の朝廷の経済基盤は荘園で、上皇の生活も支えられていた。南北朝の内乱では武士の荘園侵略が進んだが室町幕府は皇室領の荘園を保護し、段銭や棟別銭を徴収して譲位に伴う経費も負担した。応仁の乱後に幕府が衰退し、荘園制が解体されると朝廷は経済基盤を失い、上皇の所領設定や譲位の経費を負担できなくなった。
(149字)