「1950年代に保守政党・革新政党が分裂した経緯を知りたい」
「1955年に日本社会党の再統一と保守合同が実現した背景を知りたい」
「55年体制の成立前後の政党間の対立軸の変化を把握したい」
2023年の東大日本史第4問設問Bでは、1950年代後半から岸内閣期における政党間対立がどのように変化したのかを内閣の施策に留意しながら3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の内容について解説します。
- 日本社会党が左右に分裂した経緯
- 吉田内閣末期に保守勢力が分裂した経緯
- 日本社会党の再統一と保守合同による55年体制成立の経緯
- 55年体制成立後の岸内閣での保守と革新の対立軸
戦後間もない時期の日本の政党史を整理する記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(1)
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…
日本国憲法改正の発議には衆参各議院で総議員の三分の二以上の賛成が必要です。
したがって、三分の一以上の議席を確保していれば、改憲の発議を阻止できることがわかります。
文章(2)
与野党議員の多くに対して事前に知らせずに
保守勢力が一枚岩ではなかったことを示しており、内部での対立が存在していたことがわかります。
文章(3)
左右両社会党の支持を得て鳩山一郎内閣が成立した
革新勢力が保守勢力である鳩山内閣を支持していたことがわかります。
その要因として、鳩山内閣の自主外交によるソ連との国交回復が考えられます。
円グラフ
革新勢力である左派社会党と右派社会党が合わせて三分の一の議席を確保しており、改憲の発議を阻止できる勢力となっていました。
文章(4)
新しい日米安全保障条約が発効した
岸内閣は日米安全保障条約の改定を推進し、日本社会党はこれに反対しました。
これにより、外交施策をめぐって政党間対立が生じたことがわかります。
円グラフ
保守勢力が自由民主党に、革新勢力が日本社会党に統一されていることが示されています。
講義
革新勢力の分裂(1951年10月)
1951年のサンフランシスコ平和条約での講和は西側諸国との単独講和でした。
これに対し、日本社会党左派はソ連・中国を含む全面講和を主張しました。
左派は安保条約に反対し全面講和を求め、右派は単独講和を認める立場をとったため左派と右派の党内対立が激化し、日本社会党は左右に分裂しました。
保守勢力の分裂(1954年11月)
1952年に公職追放を解除された鳩山一郎が自由党に復帰しました。
それをきっかけとして自由党内では吉田茂派と反吉田派(鳩山派)との対立が生じました。
そして、1954年に鳩山派が自由党を離れて日本民主党を結成しました。
この分裂は保守勢力の弱体化を招きました。
55年体制の成立(1955年11月)
鳩山一郎内閣は憲法改正と再軍備を目指しましたが、これに反発した日本社会党は右派と左派が再統一しました。
そして、改憲発議の阻止に必要な三分の一の議席を確保しました。
一方、保守勢力は社会党の再統一と政権獲得の可能性に対抗するため、自由党と日本民主党が合流して自由民主党を結成して保守合同を実現しました。
こうして、保守一党優位の下での保革対立の構造である55年体制が確立されました。
鳩山内閣期の政党間対立
鳩山内閣期には、鳩山が掲げた憲法改正と再軍備をめぐる保守・革新勢力の対立が政党間対立の焦点となりました。
鳩山の改憲方針に対して社会党は憲法擁護・非武装中立を掲げて対立しましたが、外交政策においては協調的な姿勢を示し、鳩山の自主外交や日ソ国交回復の方針を支持しました。
岸内閣期の政党間対立
岸信介内閣期には、自由民主党が日米安全保障条約の改定を推進する一方で革新勢力である日本社会党は安保改定に強く反対しました。
社会党はアメリカとの軍事的提携を深めることが日本の独立性を損なうと主張し、反対運動を組織しました。
この時期から、政党間対立は憲法改正のみならず、外交政策をも巡る激しい対立へと発展しました。
解答例
鳩山内閣期、革新勢力が鳩山の自主外交を支持して政党間対立の焦点は鳩山が掲げた憲法改正であった。その後社会党の再統一と保守合同を経て岸内閣の安保改定をめぐり外交施策でも対立した。
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