「サンフランシスコ平和条約で日本が西側諸国との単独講和をした背景を知りたい」
「日ソ共同宣言でソ連との関係を改善させた背景を知りたい」
「日米安全保障条約改定の意義や内容を知りたい」
2023年の東大日本史第4問設問Aでは、占領終結から岸内閣期において日本の対外関係がどのように変化したかを国際政治の動向に留意しながら3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の内容について解説します。
- 吉田内閣期にサンフランシスコ平和条約で占領が終結した際の国際政治の動向と日本の対外関係
- 鳩山内閣期に自主外交路線を掲げた際の国際政治の動向と日本の対外関係
- 岸内閣期に日米安全保障条約の改定に成功した際の日本の対外関係
戦後間もない時期の日本の対外関係を整理する記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(2)
サンフランシスコ平和条約が調印され
吉田茂内閣がアメリカ主導で西側との単独講和に応じたことがわかります。
これによりソ連との講和は成立せず、日本は西側陣営に組み込まれる形で独立を達成しました。
日米安全保障条約に(中略)署名
占領終結後も米軍の日本駐留を認め、対米従属外交路線を明確化しました。
文章(3)
日ソ共同宣言に調印
「自主外交」の方針のもとでソ連との国交回復を推進し、これを実現しました。
文章(4)
新しい日米安全保障条約が発効
日米安全保障条約の改定によって日米関係の対等化が進みました。
講義
第3次~第5次吉田茂内閣(1949年2月~1954年12月)
国際政治の動向
冷戦が表面化し、アメリカを中心とする資本主義陣営(西側)とソ連を中心とする社会主義陣営(東側)の対立が激化しました。
東アジアでも1948年に朝鮮民主主義人民共和国、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。
これにより、東アジアにおける冷戦の緊張が一層高まりました。
対外関係・対外政策
朝鮮戦争の勃発を受けてアメリカは日本の戦略的価値を再認識し、日本を西側陣営に早期に編入することを急ぎました。
吉田茂内閣はこれに応じ、アメリカ主導で対日講和を進めました。
1952年のサンフランシスコ平和条約により日本は西側諸国のみとの単独講和で独立を果たし、対米従属の形で西側陣営に組み込まれました。
同時に結ばれた日米安全保障条約により占領が終結した後も米軍の日本駐留が継続されましたが、アメリカ側には日本防衛義務がなく、日本にとって片務的で不平等な条約内容となりました。
1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれ、日本の防衛力強化が求められることになりました。
鳩山一郎内閣(1954年12月~1956年12月)
国際政治の動向
吉田内閣期の1953年以降、冷戦の緊張が緩和(雪どけ)しアメリカとソ連の間で平和共存の動きが進みました。
1955年にはジュネーブ四巨頭会談が行われ、東西の対立が徐々に和らぐ雰囲気が生まれました。
対外関係・対外政策
鳩山内閣は「自主外交」の方針を掲げ、対米依存からの脱却を目指しました。
この背景には米ソの平和共存の動きがありました。
1956年の日ソ共同宣言ではソ連との国交を回復し、戦争状態を終結させました。
これにより国際連合加盟の障害が取り除かれ、日本は国際社会に本格的に復帰することができました。
岸信介内閣(1957年2月~1960年7月)
国際政治の動向
岸内閣期も冷戦下での平和共存が続きましたが、ベトナムでは南北分断が進みました。
社会主義国家としての南北統一を目指した北ベトナムに対し、アメリカが共産主義の拡大を防ぐために南ベトナムを支援したからです。
東南アジア全体が緊張をはらんだ状態が続いていました。
対外関係・対外政策
岸信介内閣は「国連中心」と「アジア中心」を掲げて独自性を確保しつつ、日米関係の緊密化と対等化を進めました。
1960年には日米安全保障条約が改定され、「日米相互協力及び安全保障条約」として新たに締結されました。
これによりアメリカの日本防衛義務が明記され、在日米軍の行動には事前協議が必要とされるなどして日本の自主性と日米関係の対等性が強化されました。
解答例
吉田内閣期は冷戦激化のなかで西側陣営と単独講和し対米従属を進めた。米ソの平和共存が進んだ鳩山内閣期はソ連と国交を回復し、国連に加盟した。岸内閣期では日米関係の対等化が進んだ。
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