「天保の飢饉がもたらした社会的影響を知りたい」
「天保の改革においてどのような政策がどのような目的で行われたのかを知りたい」
「天保の改革で実施された諸政策が人々の暮らしにどのような影響を与えたのかを知りたい」
2023年の東大日本史第3問設問Bでは、1840年代の町奉行が寄席の全廃や統制に反対した理由について、江戸に関する幕府の政策や、それ以前に直面した社会的課題を踏まえて3行(約90字)以内で記述する問題が出題されました。
この記事では、以下の内容について解説します。
- 天保の飢饉がもたらした社会的影響
- 天保の改革のうち人々の生活に関連する諸政策
天保の飢饉と天保の改革の意図やその影響について理解を深められる記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。
資料の読み取り
文章(2)
老中水野忠邦は、江戸の寄席の全廃を主張した
老中水野忠邦の寄席全廃の主張は、天保の改革で行われた風俗取締令や倹約令と関連しています。
ささやかな娯楽の場
町奉行は寄席が江戸の人々にとって貴重な娯楽の場であり、下層町人の不満緩和による治安維持のために必要だと考えていました。
そこで、寄席という娯楽の場を奪うことで町人の不満が高まることを懸念しました。
そこで働く人々の仕事も失われる
また、寄席を全廃すると寄席で働く人々の仕事も失われるため、失業問題の悪化につながる可能性がありました。
寄席の全廃は江戸の失業問題に対処するうえで逆効果であり、雇用確保のためにも寄席の存在は必要と町奉行は考えました。
もし雇用の場が奪われれば失業が発生し、町人の暮らしが厳しくなって治安が悪化する恐れがあると町奉行は判断していたのです。
文章(3)
米価などが高く/盛り場もにぎわっておらず/仕事の口も少ない
江戸では米価などの物価が高騰し、盛り場も活気を失い、仕事の口が少なくなっていました。
このことから、物価上昇や失業者の増加などにより町人の生活が一層厳しくなっていたことがわかります。
消費の減退が進み、経済状況は悪化していました。
何をするかわからない/騒ぎ立てないよう手を打つべき
この状況に対し、町奉行は打ちこわしの発生を防ぎたいと考えました。
下層町人の不満やストレスのはけ口が必要であり、寄席の存続はその一助となると判断していたのです。
寄席の全廃がかえって民衆の不満を高め、打ちこわしなどの暴動を引き起こす懸念があり、町奉行は寄席の存続を強く主張しました。
町奉行は寄席が治安維持に役立つと考え、打ちこわし防止策の一環として寄席の存在を必要不可欠なものと見ていたのです。
文章(4)
56万人のうち28万人余りは日々の暮らしをその日に稼いだわずかな収入でまかなう「その日稼ぎの者」
「その日稼ぎの者」が江戸の町方人口の半数を占め、彼らが打ちこわしの主体となるリスクがあると町奉行は認識していました。
寄席の全廃はそのような民衆の不満を高め、打ちこわしの発生につながることが懸念されました。
町奉行は下層町人の不満を抑えるために寄席の存続を主張していたのです。
文章(5)
寄席に対する統制の緩和を主張した/その数は急増
風俗取締を進めた水野忠邦が失脚すると、寄席の統制が緩和されて数が急増しました。
これは、下層町人の不満解消と雇用確保のために寄席が効果的であると判断されたからです。
町奉行は、寄席の増加が下層町人の不満を和らげて打ちこわし防止に寄与すると考えていたのです。
講義
天保の飢饉(1830年代)
1830年代に気候の寒冷化による凶作が続いた結果、多くの餓死者が出て社会に深刻な影響を与えました。
これを天保の飢饉といいます。
物価が高騰し、失業者が増加しました。
貧しい農民や町人たちは不安定な生活を余儀なくされ、民衆の不満が高まりました。
この不満は各地での打ちこわしや百姓一揆の増加につながりました。
農村では百姓一揆が、都市では打ちこわしが頻発して社会が不安定になりました。
江戸の対応策
江戸では民衆の救済策として「お救い小屋」が設置され、窮民を収容して米や銭を施しました。
この措置のおかげで、江戸では打ちこわしの発生が防がれました。
各地で発生した乱・一揆の代表例
大塩の乱(1837年)
大塩の乱は、天保の飢饉への幕府の無策に対する民衆の失望が引き金となりました。
大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、窮民の救済と幕政の改革を掲げて蜂起しました。
大坂は幕府の直轄都市であり、しかも反乱を起こしたのが幕府の元役人であったことは幕府にとって大きな衝撃でした。
大塩の乱は半日で鎮圧されたものの、その影響は全国に広がり、多くの地域で一揆が誘発されました。
生田万の乱(1837年)
生田万の乱は越後柏崎で国学者の生田万が起こした反乱です。
生田万は「大塩門弟」と称し、越後柏崎の桑名藩の陣屋を襲撃しました。
この乱も大塩の乱に刺激されて貧民救済を目指しての蜂起であり、幕府への不満が広がっていたことを示しています。
天保の改革(1840年代)
天保の改革は老中水野忠邦が主導して行った幕政改革で、財政緊縮や綱紀粛正を通じて社会の安定を図るものでした。
天保の改革は天保の飢饉による社会の動揺、大塩の乱を始めとする騒動、深刻化する財政難、さらにモリソン号事件やアヘン戦争などの国際的な問題に対処するために実施されました。
江戸の秩序回復を目指した政策
江戸では、貧民の流入や物価の上昇が原因で社会秩序が乱れていたため、改革の一環として以下の政策が実施されました。
風俗の抑制
民衆の生活全般に及ぶ風俗の抑制を目指し、寄席の削減、歌舞伎三座の場末移転、人情本・合巻の弾圧、奢侈の禁止などを実施しました。
あらゆる階層に対して厳しい倹約令が課され、結果として民衆の娯楽が奪われることとなりました。
寄席などの娯楽が減ることで、民衆の不満は高まりました。
株仲間解散令
物価引き下げを狙い、株仲間を解散させて自由交易を促進しようとしました。
しかし、流通が混乱して物価が上昇してしまう結果となりました。
人返し令
天保の飢饉で荒廃した農村を再建し、年貢負担者を確保するために農村から江戸に流入した貧民を強制的に帰村させる政策が取られました。
江戸の人口を減少させることによる打ちこわしの防止などの治安維持も図ろうとしましたが、貧民は江戸周辺地域に滞留してしまい、根本的な解決にはつながりませんでした。
解答例
天保の飢饉による物価高騰や大塩の乱をきっかけに各地で一揆が続発するなか、町奉行は寄席の全廃や統制が失業の増加や貧民の不満拡大を招き、江戸で打ちこわしが発生することを懸念した。
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