【東大日本史2023】1820年頃から江戸で寄席が急増した理由|第3問設問A解説

東大日本史2023第3問設問A1820年頃から江戸で寄席が急増した理由 日本史

「化政文化の特徴を整理しておきたい」
「19世紀前半の江戸において大衆文化が発展した背景を知りたい」
「18世紀後半の農村経済の状況を理解しておきたい」

2023年の東大日本史第3問設問Aでは、1820年頃から江戸で寄席が急増した理由を、歌舞伎と対比される寄席の特徴に留意しながら2行(約60字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、以下の内容について解説します。

  • 18世紀後半の農村経済の状況
  • 化政文化の特徴とその背景
  • 19世紀前半の江戸において大衆文化が発展した理由

江戸時代の社会経済と文化のつながりについて深く理解できる記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(1)

歌舞伎は日中だけ興行⇔寄席は夜も興行

寄席は日中だけでなく夜も興行しており、仕事帰りに立ち寄ることができました。
日々の暮らしをその日の稼ぎでまかなう貧民にとって、日中しか興行していない歌舞伎よりも寄席の方が身近な娯楽でした。

歌舞伎は入場料が次第に高額化した⇔寄席の入場料は歌舞伎の100分の1ほど

寄席は歌舞伎に比べて圧倒的に安価で、経済的に厳しい人々でも楽しめる娯楽として親しまれていました。
歌舞伎は裕福な町人向けの娯楽でしたが、寄席は庶民の財布に優しいものでした。

文章(2)

寄席は歌舞伎などに行けない職人や日雇い稼ぎの者などのささやかな娯楽の場

寄席の観客は主に職人や日雇い稼ぎの者など、経済的に余裕のない人々でした。
寄席が彼らのささやかな楽しみとなり、広く親しまれていたことがわかります。

文章(4)

56万人のうち28万人余りは日々の暮らしをその日に稼いだわずかな収入でまかなう「その日稼ぎの者」

当時の江戸では住民の半数以上が貧民であり、こうした状況から彼らに向けた安価な娯楽が求められていたことが寄席の急増に影響したと考えられます。

講義

18世紀後半の農村経済

18世紀後半の日本では、文政期に金貨・銀貨が大量に発行され、貨幣経済がさらに浸透しました。
これにより商人の活動が活発化し、農村では階層分化が進行しました。
農民層の中でも貧困層が増加し、土地を失うなどして江戸へ流入する人々が増えました。
また、1830年代の天保期には凶作や飢饉(天保の飢饉)が続き、多くの貧農が江戸に移り住むようになりました。

こうした流れの中で、江戸周辺には「江戸地廻り経済圏」が形成され、江戸の生活必需品を供給するための商品作物の栽培や農村工業が発展しました。
この時期には問屋制家内工業や工場制手工業も見られるようになり、関東農村への貨幣経済の浸透が急速に進みました。

結果として事業に失敗した本百姓の没落が増え、田畑を手放す者や日雇い労働に従事する者が増加しました。
こうした貧困層が江戸に流入し、日雇い稼ぎの貧民が江戸の人口の多くを占めるようになりました。

化政文化(19世紀前半)

化政文化は江戸の町人文化として発展し、特に庶民に親しまれる文化が花開きました。
江戸の庶民の暮らしに寄り添った娯楽として寄席が人気を博した背景には、この時代の社会経済状況があります。
化政文化は都市を中心に広がり、特に中下層の町人がターゲットとなる芸能が盛んになりました。

解答例

飢饉などにより江戸に流入する貧民が増加した。寄席は歌舞伎より安価で夜も興行しており、仕事帰りの貧しい町人に人気だった。
(59文字)

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