【東大日本史2023】応仁・文明の乱と武士の家督継承決定の変化|第2問解説

東大日本史2023第2問応仁の乱の発生・拡大とその時期の武士の家における家督継承決定のあり方の変化との関係 日本史

「室町時代の武士の家督継承者決定はどのようなものであったのか知りたい」
「鎌倉時代の武士の相続のあり方を理解し、室町時代との比較をしたい」
「武士の家督継承者決定の変化が応仁の乱の発生・拡大にどう関わったのかを知りたい」

2023年の東大日本史第2問では、1467年に始まった応仁・文明の乱の発生・拡大に影響を与えた、武士の家における家督継承決定のあり方の変化とその関係について5行(約150字)以内で記述する問題が出題されました。

この記事では、以下の内容について解説します。

  • 鎌倉時代の武士の相続のあり方
  • 室町時代の武士の家督継承のあり方とそ社会的影響
  • 応仁・文明の乱の発生と拡大の背景

鎌倉時代と室町時代における武士の相続について理解を深められる記事となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。

執 筆 者
諏訪孝明

東京大学経済学部卒
1浪・東大模試全てE判定・センター7割台の崖っぷちから世9割、日8割、数2割で文科Ⅱ類に合格。
これまでに1000人以上の受験生を指導。 
直近2年で偏差値70超の学校への合格率が90%を超えている。

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資料の読み取り

文章(1)

父則平は(中略)後継者に指名した

家督継承は惣領(家長)の指名によって決定されていることがわかります。
このことから、家督継承者が惣領の意思で選ばれる形式が取られていたことが確認できます。

家督をめぐり(中略)争った

家督を巡る争いが発生していることから、単独相続が主流であることが示されています。
家内部での家督争いが発生していたことがわかります。

将軍足利義教が有力守護に意見を問うた

室町幕府6代将軍足利義教が家督継承の決定に介入している様子が読み取れます。
幕府の権威が家督継承の重要な決定要因であったことを示しています。

まず一族・家臣の考えを尋ねるべし

家督継承決定においては、当主の意思よりも一族や家臣の意向が尊重される傾向があったことがわかります。

文章(2)

義教は(中略)義郷を指名して斯波家の家督を継がせた

斯波家の家督継承は、当主の意向ではなく、室町幕府6代将軍足利義教の意向で決定されたことが示されています。
将軍の権力が維持されていた時期には、家内部の対立は将軍の決定によって収束するケースが見られました。

文章(3)

有力家臣たちが(中略)家督に擁立した

家督継承における有力家臣の発言力が増していることがわかります。
家臣が家督継承に積極的に関与し、家の内部での権力構造が変化していることが示されています。

義教に願い出て

この記述からも、室町幕府の将軍が家督継承に関与していたことがわかります。
将軍の裁定が家督争いの解決に影響を与えていたことが示唆されています。

義教が嘉吉の変で討たれる

嘉吉の変で将軍足利義教が討たれたことにより、将軍の権威が失墜したと考えられます。
これにより将軍が家督継承に介入することが難しくなり、家内部の対立が増加したことが予想されます。

持国は軍勢を率いて持永を京都から追い落とし、家督に復帰した

家内部の内紛が発生しており、実力行使によって家督継承が決定されるケースが増加したことがわかります。
持国に従う軍勢の存在から、畠山氏の家臣たちが持国派と持永派に分裂していたことが示唆されています。

文章(4)

有力家臣甲斐常治が主導権を握った/常治と義敏の父持種が対立/家臣たちの支持を失い

家督継承は家臣の支持が大きな影響力を持っていたことがわかります。
家臣たちが実力で家督争いを左右するようになり、家内部での対立が複雑化していったことが示されています。
将軍の権威が衰退したことで、家督争いは家臣や一族の間での対立によって決まることが増えたことが読み取れます。

講義

鎌倉時代前期・中期の武士の家における相続

鎌倉時代の前期から中期にかけて、武士の相続は分割相続が原則とされていました。
これは嫡子だけでなく庶子や女性にも財産を分け与える相続形態であり、惣領制と呼ばれる一族の結合体制のもとで行われていました。

惣領制とは

惣領制は一族の血縁的結合に基づく中世の武士団の社会的結合形態です。
この制度では一族が結束してまとまり、行動することが求められました。
惣領制の中心には惣領(家長)が存在し、一族の統率者としての役割を担いました。

惣領

一族の宗家(本家)の長であり、家督を相続する者です。
惣領は一門を統率し、血縁的な結びつきを強化する役割を果たしました。

嫡子

惣領制において惣領の地位を継ぐ者で、家督相続の第一候補です。

庶子

嫡子以外の子どもたちを指します。
惣領に従属する立場でしたが、財産を分割相続する権利を有していました。

一門・一家の結合

宗家と分家は強い血縁的統制のもとで結びついていました。
この結合体は一門・一家と呼ばれ、その中心には惣領が立ちました。
分家であっても宗家の命令に従い、全体として一族のまとまりを維持しました。
所領の分割相続は一族の成員すべてに対して行われ、庶子のみならず女性にも相続権が認められていました。
これにより、一門・一家は強固な結合を保ち、武士団としての社会的結束を高めていました。

鎌倉時代後期以降の武士の家における相続の変化

惣領制の解体と相続の変化

鎌倉時代後期になると惣領制が徐々に解体され、分割相続から嫡子による単独相続へと移行しました。
この変化の背景には元寇による戦費負担の増大や恩賞不足、新たな所領を得られないままの分割相続の継続による所領の細分化がありました。
さらに貨幣経済の浸透により所領が売却されることが増え、窮乏する御家人が多く現れました。
これらの要因が重なり、嫡子単独相続への転換が余儀なくされました。

単独相続の一般化と家督争い

単独相続では、嫡子が惣領として家督の地位と全ての所領を一括して相続するようになりました。
このため、惣領(家督)の立場が強まるとともに相続から外れた庶子の地位は低下し、彼らは惣領家の家臣として従属する形態が一般化しました。

一期分の導入

分割相続から単独相続へと変化する過渡期には「一期分」という制度が見られました。
これは、本人一代限りの支配が認められる所領で、死後には一族に返還されることになっていました。
鎌倉後期から始まったこの制度は、特に女性の相続分や庶子に対して適用されました。

家督争いの激化とその影響

単独相続の普及により、家督の地位を巡る争いが一族内で頻発するようになりました。
嫡子が家督を継ぐことが一般化すると庶子との間で家督を巡る対立が激化し、家内部の分裂を招きました。
これらの争いは後の室町時代における家督継承の問題へとつながり、武士の家の内部対立を増幅させる要因となりました。

応仁・文明の乱の発生と拡大の背景

嘉吉の変と将軍権威の失墜

1441年、嘉吉の変で室町幕府6代将軍足利義教が播磨国の守護大名である赤松満祐により誅殺されました。
義教は有力守護の所領没収や家督争いへの介入を行い、守護大名たちの反感を買っていました。
この事件を契機として将軍の権威が大きく揺らぎ、以降、幕府内外で家督争いが頻発するようになりました。

家督争いと幕府の内紛

将軍家や有力守護大名家、さらには管領家の内部で家督を巡る争いが続出しました。
畠山氏や斯波氏など、管領家内部での家督争いが特に目立ちました。
また、幕府の実力者である細川勝元と山名持豊が幕府の主導権を巡って対立し、この対立が管領家や将軍家の家督争いに介入する形で応仁・文明の乱の火種となりました。

将軍継承問題と幕府の分裂

将軍足利義政の後継問題も、乱の発生に大きく影響を与えました。
義政の後継を巡って、義政の弟足利義視と義政の妻日野富子が推す子足利義尚の間で対立が生じました。
この対立は幕府内部の分裂をさらに深め、家督争いを抱える守護大名たちが巻き込まれる形で乱が拡大しました。
家督を巡る争いは、各派が幕府の有力者と結びつくことで、全国的な抗争へと発展していきました。

守護大名の利害対立と参戦

乱の発生は領国支配を巡る利害対立を抱える守護大名たちの参戦も招きました。
守護大名たちは領国支配の安定と拡大を目指して乱に参加し、幕府の内部対立を更に拡大させる要因となりました。こうして、応仁・文明の乱は全国に広がり、幕府の権威が完全に失墜する大規模な内乱へと発展しました。

解答例

単独相続が主流になると家督争いが増加し、一族や家臣の意向、将軍の裁定が家督継承者決定の重要な決定要因となった。嘉吉の変で将軍の権威が失墜すると家内部の対立が激化し、家督継承を巡る軍事衝突が増えた。幕府の有力者たちが将軍家や管領家の家督争いに介入したことが応仁・文明の乱の発生・拡大につながった。
(147字)

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