「鎌倉時代の公武二元支配について理解したい」
「源頼朝がどのように権力を獲得していったのかを整理したい」
「鎌倉幕府の成立について有力な説を知りたい」
2024年の東大日本史第2問設問Bでは、源頼朝が東大寺再建にどのように協力したのかを、頼朝の権力のあり方に留意しつつ3行(約90字)で説明する問題が出題されました。
この記事では以下の内容について解説しています。
- 源頼朝の東国政権の長としての権力のあり方
- 源頼朝の朝廷に従属する武家の棟梁としての権力のあり方
- 源頼朝の摂関家に準じる権門貴族としての権力のあり方
- 源頼朝が権力を獲得していく過程の時系列整理
「源頼朝とはどのような存在であったのか」「成立当初の鎌倉幕府はどのような位置づけだったのか」を理解するために必要な事項を詳しく解説していますので、ぜひ最後までお読みください。
講義
源頼朝の3つの権力の性格
鎌倉幕府を樹立した源頼朝には、次の3つの性格がありました。
- 朝廷から独立した東国政権の長
- 朝廷に従属する武家の棟梁
- 摂関家に準じる権門貴族
それぞれについて解説します。
①朝廷から独立した東国政権の長
源頼朝は、東国を実質的に支配する武家政権を確立しました。
頼朝は東国の武士と主従関係を結び、彼らを御家人として組織し、多くを地頭に任命しました。
地頭の任務は、年貢を徴収して荘園領主や国衙に納めることでした。
この主従関係は土地の支配権の保障を通じて結ばれ、封建的な支配体制を築きました。
頼朝は御恩として御家人に地頭職を与え、彼らは奉公として軍役や警護の義務を負いました。
封建制度
封建制度は、土地の給与を通じて主人と従者が結びつく封建関係を基盤とした政治・社会・軍事制度です。
この制度は、将軍と御家人の間に成り立つ封建的主従関係を特徴とし、「御恩」と「奉公」によって支えられています。
御恩
御恩とは主君である将軍が従者である御家人に対して与える恩恵のことです。
具体的には御家人を地頭に任命する際に行われる以下のような措置が含まれます。
- 新恩給与:敵方から没収した土地の守護・地頭職を新たに与えること
- 本領安堵:御家人の父祖伝来の所領の支配権を保障すること
奉公
奉公とは従者である御家人が主君である将軍の御恩に報いるために奉仕する義務のことです。
主な奉公の内容は以下の通りです。
- 軍役: 戦時において将軍のために出陣する義務。
- 京都大番役: 平時に内裏(天皇の御所)を警護する役目。
- 鎌倉番役: 将軍御所を警護する任務。
- 関東御公事: 将軍御所や鶴岡八幡宮の修繕費用などを負担すること。
②朝廷に従属する武家の棟梁
頼朝はまた、朝廷の支配体制の下で武家の棟梁としての役割も担いました。
全国に守護を設置し、軍事・警察を担うことで、朝廷の支配を補佐しました。
守護の権限は大犯三カ条に限定され、治安維持や軍事指揮を行いました。
頼朝が地頭に任命した御家人は荘園・国衙領の治安維持と年貢徴収を行い、朝廷の支配体制を補完する役割を果たしました。
大犯三カ条
大犯三カ条とは大番催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕の3つを指します。
大番催促とは国内の御家人が京都大番役に従事することを催促することです。
③摂関家に準じる権門貴族
頼朝は右近衛権大将に任命されることで、摂関家に準じる家格を確保しました。
また、多くの知行国や荘園を所有し、財政基盤を強化しました。
これにより、頼朝は公家や寺社勢力と協調しながら武家権門としての地位を確立しました。
公武二元支配
公武二元支配とは、鎌倉時代における朝廷(公家)と武家(幕府)の二つの支配体制が並存し、互いに協力しながら日本を統治した政治体制を指します。
公(朝廷)は、天皇を中心に京都を拠点とし、主に畿内・西国を支配しました。
一方、武(幕府)は、源頼朝を中心に鎌倉を拠点として東国を支配し、それぞれの役割分担が明確化されていきました。
公武二元支配の具体的な運用
鎌倉幕府成立当初、幕府は東国支配権や守護・地頭の設置において朝廷の承認を必要とし、経済的にも荘園公領制を前提とした体制を維持していました。
朝廷の政治的支配権や荘園領主の経済的支配権も依然として強く残っており、年貢の納入を怠った地頭に対しては、幕府が処罰を行っていました。
つまり、源頼朝が築いた権力すなわち鎌倉幕府は朝廷の支配秩序、特に天皇を中心とする体制の下に組み込まれた存在であり、この秩序を前提として機能していたのです。
また、源頼朝は公武二元支配の一翼を担う立場にあり、朝廷の支配体制のもとで武家として組み込まれていました。
朝廷は畿内や西国を中心に支配権を維持し、軍事指揮権を保持していました。
天皇家や摂関家、延暦寺・興福寺などの有力寺社は引き続き知行国や荘園を所有し、その影響力を保ち続けました。
頼朝による御家人統制は朝廷の権威を積極的に活用したものであり、このことが武家権門としての鎌倉幕府の確立につながったと言えます。
源頼朝の権力拡大と鎌倉幕府の成立
頼朝の権力拡大と鎌倉幕府成立の過程には、いくつかの重要なステップがあります。
東国支配の承認(1183年)
頼朝が朝廷から東海道・東山道の支配権を承認されたことで、東国支配が確立しました。
この時点で鎌倉幕府の成立を主張する説もあります。
守護・地頭の任命権獲得(1185年)
頼朝は、源義経追討を口実に、守護・地頭の任命権を朝廷から公認されました。
これにより、鎌倉幕府は全国に軍事・警察権を拡大しました。
この時点で鎌倉幕府の成立を主張する説もあります。
奥州合戦(1189年)
頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、その所領を御家人に与えることで武門の棟梁としての地位を確立しました。
右近衛大将任命(1190年)
奥州藤原氏の討伐後、頼朝は右近衛権大将に任じられ、摂関家に準じる家格を得ました。
この時点で鎌倉幕府の成立を主張する説もあります。
征夷大将軍任命(1192年)
頼朝が征夷大将軍に任命されたことで、鎌倉幕府が名実ともに成立したとされています。
資料文の読み取り
資料文(1)
朝廷は
東大寺再建が朝廷の事業であり、源頼朝が協力していたことから、公武二元支配に基づく頼朝の権力と朝廷との関係が求められていることが分かります。
資料文(2)
藤原秀衡は/源頼朝は
源頼朝が奥州藤原氏に対抗するため、多額の寄付を行ったことが読み取れます。
資料文(4)
1191年/1194年
西暦1191年や1194年は、奥州藤原氏滅亡後の出来事です。
これが資料文(2)と(4)の寄付のみか再建事業に御家人を動員しているかの違いにつながっています。
西国の地頭に命じた
西国の地頭に命じた頼朝の行動からは、地頭職に任命された御家人に奉公として東大寺再建への協力を担わせたことが分かり、頼朝の権力が西国にも及んでいたことを示しています。
有力御家人たちの責任で(中略)命じた
封建的主従関係を結んだ御家人を動員し、東大寺再建に協力させたことが伺えます。
解答例
源頼朝は奥州藤原氏に対抗するため、朝廷が主導する東大寺再建に多額の寄付を行ってその影響力を強化した。奥州藤原氏滅亡後は御家人を奉公として全国的に動員し、再建に積極的に協力させた。
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